えなかった。それにまたクリストフは、他のいろんなことに気をとられていた。彼はオリヴィエのことを考えていた。フランソアーズのことを考えていた。現にその朝ある新聞で、彼女がサン・フランシスコにおいて重い病気にかかってるということを、読んだのだった。他国の町にただ一人ぽっちで、旅館の一室に横たわり、だれにも面会を断わり、友人たちへも手紙を書かず、歯をくいしばって、一人で死を待っている、そういう彼女の姿を彼は頭に浮かべたのだった。
 クリストフはそれらの考えにつきまとわれて、大勢の人込みを避け、小さな別室に退いた。薄暗いその隠れ場所で、壁に背をもたせ、緑の木と花との仕切りの後ろから、シューベルトの菩堤樹[#「菩堤樹」に傍点]を歌ってるフィロメールの哀切な熱烈な美声に、彼はじっと耳を傾けていた。するとその純な音楽のために、いろんな追憶の憂愁が心に上ってきた。正面の壁についてる大きな鏡には、隣の大広間の燈火や活気が写っていた。が彼はその鏡を見はしないで、自分の内部をながめていた。眼の前には涙の霧がかかっていた。……と突然、シューベルトの打ち震える老木のように、彼は理由もなく震えだした。そのまま身動きもしないで真蒼《まっさお》になって、数秒間震えていた。それから眼の曇りが消えて、自分の前に、大鏡の中に、こちらをながめてる「女の友」の姿が見えた。……女の友? それはいったいだれか? 彼には何にもわからなかった。彼女が自分の友であり、自分は彼女を知っている、ということだけしかわからなかった。そして、眼を彼女の眼に定め、壁にもたれながら、彼はなお震えつづけた。彼女は微笑《ほほえ》んでいた。彼女の顔や身体の格好も、彼女の眼の色合いも、また彼女の背が高いか低いか、あるいはどんな服装をしてるか、そんなことは目につかなかった。彼はただ一つのことを見てとった。彼女の同情深い微笑のけ高い温良さを。
 そしてその微笑が突然クリストフのうちに、ごく幼いころの消え去った思い出を呼び起こした。……六、七歳のころのことで、学校に通っていて、いつも悲しい目に会い、自分より年上の強い仲間から辱《はずかし》められなぐられ、皆からあざけられ、また教師からは不当な罰を受けさせられた。他の者が皆遊び戯れてるのに、自分は一人ぽっちで片隅《かたすみ》にうずくまって、低く泣いていた。すると、他の者といっしょに遊んでいない一人
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