る大なる精神生活。その二つを維持するのはいつも容易なことではなかった。幸いなことにアルノーもまた、書物のうちに、芸術作品のうちに、半ば空想的な生活をしていた。その永遠の火によって、揺らめいてる魂の炎が支持されていた。しかしこの数年間彼は、職務上のいろんな煩わしい些事《さじ》や、同僚または生徒との間の不正や不公平や不愉快などから、しだいに多く心を奪われていった。彼は気むずかしくなった。政治を談じ始め、政府やユダヤ人をののしり始めた。自分が大学教授の地位を得られなくなったのは、ドレフュースのせいだとした。彼のそういう苦々《にがにが》しい気分は、アルノー夫人へも多少伝わった。彼女は四十歳近くなっていた。生活力が乱されて平衡を求める年齢だった。彼女の思想のうちには大なる亀裂《きれつ》が生じた。しばらくの間、彼らは二人とも生存の理由をすべて失った。なぜなら彼らは、その蜘蛛《くも》の巣を張るべき場所をもはやもたなかったのだから。いかに弱い現実の支持であろうとも、その一つが夢想には必要である。ところが彼らにはなんらの支持もなかった。彼らはもうたがいにささえ合うことができなかった。彼は彼女を助けないで、彼女にすがりついてきた。そして彼女のほうでは、彼をささえるだけの力が自分にないことを知った。するともう彼女は自分を支持することもできなかった、ただ奇跡によってなら救われるかもしれなかった。彼女は奇跡を呼び求めていた……。
 奇跡は魂の深みからやって来た。否応なしに創造したいという崇高な無法な欲求、否応なしに自分の蜘蛛《くも》の巣を空間に織り出したいという欲求が、孤独な心から湧《わ》き出てくるのを彼女は感じた。それはただ織り出す喜びのためにばかりであって、自分がどこに運ばれてゆくかは、風のままに、神の息吹《いぶ》きのままに、うち任せたのだった。そして神の息吹きは、彼女をふたたび生活に結びつけ、眼に見えない支持を彼女に見出さしてやった。そこで夫妻は二人とも、空想のりっぱな無益な蜘蛛の巣を、ふたたび気長に織り出し始めた。それは彼らの血液のもっとも純潔なもので作られたのだった。

 アルノー夫人は一人で家にいた……日は暮れかかっていた。
 訪問の鈴《りん》が鳴った。アルノー夫人はいつもより早く夢想から呼び覚《さ》まされて、ぞっと身震いをした。丁寧《ていねい》に編み物を片付けて、立って行って扉
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