ーは、自分のかわいい息子《むすこ》のように思われた。死にかかってる世間知らずの細君ドラーは、自分自身のように思われた。善良な純潔な眼で世をながめてゆくそれら童心の魂たちのほうへ、彼女は両手を差し出した。そして彼女の周囲には、おかしなまたいじらしい空想を追っかけてる、愛すべき貧民やおとなしい恋人の行列が、通りすぎていった――そして、自分の夢を笑いまた泣いてる善良なディケンズのやさしい天才が、その先頭に立っていた。ちょうどそういうとき、彼女が窓から外をながめると、この空想世界の親愛な人物や獰猛《どうもう》な人物が、通行人のうちに見てとられた。人家の壁の向こうに、同じような生活があるのが推察された。彼女が外出を好まないというのも、神秘に満ちてるその世界を恐れてるからだった。彼女は自分のまわりに、悲劇が隠れていたり喜劇が演ぜられていたりするのを気づいていた。そしてそれはいつも幻影ばかりではなかった。彼女は孤独な生活をしてるうちに、ある神秘な直覚の才能を得ていたので、通りすがりの人々の眼つきを見ても、その中に、往々彼ら自身も気づかないでいる過去や未来の彼らの生活の秘密を、読みとることができた。そしてそれらの真実な幻像は、彼女にあっては、架空的な追憶が加わるために変形されてしまった。彼女はそういう広漠《こうばく》たる世界のうちにおぼれる気がした。しっかりした足がかりを得るために家へもどらなければならなかった。
けれども、他人を見たりその心中を読みとったりする必要が、なんで彼女にあったろう? 彼女はただ自分自身の内部をながめるだけで十分だった。外部から見たところでは光のない蒼白《あおじろ》い彼女の存在も、内部においてはいかに光り輝いてたことだろう! なんという充実した生活だったろう! 人が夢にも知らないほどの、なんというたくさんの追憶が、宝が、あったことだろう!……そしてそれらのものは、かつて多少の現実性を有したことがあるか――もちろんある。それらは現実だったのだ。なぜなら彼女にとって現実だったから……。おう、夢想の魔法|杖《づえ》に変容させられる憐《あわ》れな生活よ!
アルノー夫人は長い歳月をさかのぼって、幼年時代までも思い起こしていた。消え失《う》せた希望のかよわい小さな花までが、一つ一つひそかに咲き返った……。ある少女にたいする幼い初恋。彼女はその娘を一目見たときからも
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