知らなかったとの弁解さえ、ジャックリーヌはなし得ないはずだった。なぜなら彼はその利己心を芸術中に誇示していたから。彼は自分のしていることをよく知っていた。芸術のうちにはめ込まれた利己心は、雲雀《ひばり》どもにたいする鏡であり、弱き者どもを妖《まど》わす炬火《きょか》である。ジャックリーヌの周囲でも、多くの婦人が彼にとらえられたのだった。ごく最近も、彼女の友の一人で結婚して間もない若い婦人が、彼のために訳なく堕落させられ、つぎには捨てられてしまった。そういう婦人らは、口惜《くや》しさを隠しおおせるほど巧みではなくて、側《はた》の人々の笑い事となりはしたけれど、はなはだしい悲嘆に沈みはしなかった。もっともひどい害をこうむった者でも、自分一身の利害と世間的な務めとを気にしていて、心の乱れを常識の範囲内だけにとどめていた。彼女らは少しも騒動をひき起こしはしなかった。夫や友人たちを欺くにしても、あるいは自分が欺かれて苦しむにしても、すべて暗黙のうちにおいてだった。彼女らは人の噂《うわさ》にたいしては女丈夫《じょじょうふ》であった。
 しかしジャックリーヌは狂人だった。彼女は自分の言ってることを実行し得るばかりではなく、自分のしてることを吹聴《ふいちょう》することもできた。彼女の無分別には、いろんな打算がなかったし、全然私心がなかった。彼女には危険な美点があって、常に自分自身にたいして率直であり、自分の行為の結果に辟易《へきえき》しなかった。彼女はその社会の他の者よりいっそうすぐれていた。それゆえにかえっていっそういけなかった。恋したとき、姦淫《かんいん》の心を起こしたとき、彼女は絶望的な率直さで無我夢中にそれへ突進した。

 アルノー夫人は一人で家にいて、ペネローペがあの名高い編み物をしてるときの落ち着きを思わせるような、逆上《のぼせ》気味の落ち着きで編み物をしていた。そして実際ペネローペのように、彼女は夫の帰りを待っていた。アルノー氏はいつも昼間を外で過ごした。午前と午後とに授業があった。少し跛を引いている上に学校はパリーの反対の端にあったけれど、たいてい昼食をしに帰ってきた。その長い道を歩くのは、好きだからというよりも、または経済だからというよりも、むしろ習慣になってたからだった。しかし日によっては、生徒に復習をしてやるために引き留められた。あるいは図書館が近所にあるのを
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