べての人たちに平和あれ……。
 夕映えの光が、静かな地平を取り巻いていた。クリストフは墓地を出た。そしてなお長い間野の中を歩き回った。星が輝いてきた……。
 翌日、彼はまたやって来て、その午後を前日の場所でふたたび過ごした。しかし、前日の黙々たる美しい静けさは元気づいていた。彼の心は呑気《のんき》な幸福な賛歌を歌っていた。彼は墓の縁石に腰をかけて、膝《ひざ》の上に開いた手帳に鉛筆で、聞こえてくる歌を書き取った。かくしてその日は過ぎた。昔の小さな自分の室で仕事をしてるような気がし、母が仕切りの向こうにいるような気がした。書き終えて立ち去らなければならないときになって――すでに墓から三、四歩遠ざかったときに――彼はふと思いついて、またもどって来、その手帳を葛《かずら》の下の草の中に埋めた。数滴の雨が落ち始めていた。クリストフは考えた。
「じきに消えてしまうだろう。それでいいのだ!……あなただけに差し上げます。他のだれにでもない。」
 彼はまた河をも見た。馴染《なじ》み深い街路をも見た。そこには多くの変化があった。町の入口には、古《いにしえ》の稜堡《りょうほ》の跡の遊歩場に、アカシアの木立が植えられるのを昔彼は見たのだが、それがすっかりあたりを占領して、古い樹々《きぎ》を窒息さしていた。ケリッヒ家の庭をめぐらしてる壁に沿って行くと、悪戯《いたずら》っ児《こ》の時分にその広庭をのぞき込むためよじ登った、見覚えのある標石があった。そして彼は、その通りも壁も庭も非常に小さくなったのに驚かされた。正面の鉄門の前で彼はちょっと立ち止まった。また歩き出すときに馬車が一つ通った。彼はなんの気もなしに眼をあげてみた。生き生きした太った快活な若い婦人の眼にかち合った。向こうは彼を不思議そうに見調べていた。と彼女は驚きの声をたてた。彼女の合図で馬車は止まった。彼女は言った。
「クラフトさん!」
 彼は立ち止まった。
 彼女は笑いながら言った。
「ミンナですよ……。」
 彼は初めて会った日とほとんど同じくらいに心を躍《おど》らして(第二巻朝参照)、彼女のそばに駆け寄った。彼女は一人の紳士といっしょだった。背が高く、でっぷりして、頭が禿《は》げ、得意げにぴんとはね上がった口髭《くちひげ》をもっていた。その男を彼女は、「高等法院顧問官フォン・プロムバッハ」――彼女の夫――だと彼に紹介した。彼女は彼
前へ 次へ
全170ページ中117ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング