Aその逆上せる不毛な世界にたいして、その利己主義の戦いにたいして、また、自分こそ世界の理性だと自惚《うぬぼ》れながら実はその悪い夢にすぎない選良者、野心家、虚栄者、などにたいして、ある嫌厭《けんえん》の情を覚えたのだった。そして、温良と信仰と献身との純な炎に黙々と燃えてる、各民族のうちの無数の素朴《そぼく》な魂の人たち――世界の心とも言うべき人たち――のほうへ彼の愛はすべて向いていった。
「そうだ、私はあなたたちを知っている。私はついにあなたたちにめぐりあった。あなたたちは私と同じ血であり、私と同胞である。私は放蕩《ほうとう》息子のようにあなたたちのもとを去って、通りがかりの人影について行った。けれどまたもどって来た。私を迎えてほしい。私たちは死者も生者も皆一体である。私がどこへ行こうと、あなたたちはいつも私といっしょにいる。私を負《おぶ》ってくれたお母《かあ》さん、私は今あなたを自分のうちに担《にな》っている。それからあなたがた、ゴットフリート、シュルツ、ザビーネ、アントアネットあなたがたも皆私のうちにいる。あなたたちは私の富である。私たちはいっしょに歩こう。私はもうあなたたちを離れまい。私はあなたたちの声となろう。皆力を合わせて、私たちは目的地に達するだろう……。」
 一条の光線が、静かに雫《しずく》をたらしてる木々の濡《ぬ》れた枝葉の間から、すべり込んできた。下のほうの小さな牧場から、幼い声が聞こえていた。三人の少女が、森の家のまわりでいっしょにロンドを踊りながら、無邪気な古いドイツの歌曲《リード》を歌ってるのだった。そして遠くから西風が薔薇《ばら》の香《かお》りのように、フランスの鐘の音をもたらしていた……。
「おう、平和、崇高な諧調《かいちょう》、解放された魂の音楽! 汝《なんじ》のうちには、悲しみも喜びも死も生も、敵同志の民族も味方同志の民族も、みないっしょに融《と》け合っている。私は汝を愛する、汝を求める、汝を自分のものとしよう……。」

 夜の帷《とばり》が落ちてきた。クリストフは夢想から覚《さ》めて、オリヴィエの信実な顔を自分のそばに見出した。彼はそれに微笑《ほほえ》みかけて抱擁した。それからまた二人は、無音のまま森の中を歩きだした。そしてクリストフは、オリヴィエの先に立って道を開いて進んだ。

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黙々として、ただ二人、連れもなく、
われらは前後に相並びて進みゆきぬ、
あたかもフランシスコ修道士らのごとくに……。
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底本:「ジャン・クリストフ(三)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年8月18日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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