スいするその純潔な私心なき愛や、自己忘却や、美しきものにたいする奉仕などによって、彼にあの親愛なるシュルツ老人を思い起こさした。そして彼はシュルツ老人の思い出のために、彼らを愛した。
クリストフは、異なった民族の善良な人々の間に精神的国境を設くることの愚かさを見出すと同時に、同一民族の善良な人々の異なった思想の間に国境を設くることの愚かさをも見てとった。そして彼のおかげで、しかも彼が求めたことではなかったが、もっともたがいに理解しがたいと思われた二人、牧師コルネイユとヴァトレー氏とは、たがいに知り合いになった。
クリストフはその二人から書物を借りていた。そしてオリヴィエがいやがったほどの無遠慮さで、彼はその書物をまた一方のほうに貸していた。コルネイユ師はそれを別段不快ともしなかった。彼は人の魂にたいする直覚力をもっていた。そして若い隣人クリストフの魂中に、みずから知らずに宗教的なものがあることを、それとなく読みとっていた。ヴァトレー氏から借り出されたクロポトキンの一冊は、種々の理由から三人ともに好きな書物であって、それが接近の初めとなった。ある日偶然にも三人はクリストフのもとで落ち合った。クリストフは初め、二人の客の間に面白からぬ言葉がかわされはすまいかと恐れた。しかし反対に二人は、非常な丁重さを示し合った。彼らは安全な話題について話をした、旅行の話や、他人にたいする経験談など。そして彼らは二人とも、絶望すべき多くの理由をもってたにもかかわらず、架空的な希望や福音書的な精神や温厚さなどに満ちてることを、二人とも示した。彼らはたがいに相手にたいして、ある皮肉さの交じった同情の念を覚えた。ごく慎み深い同情の念だった。彼らはけっしてたがいの信仰の奥底に触れ合わなかった。たがいに会うことはごくまれであり、また会おうとも求めなかった。しかし顔を合わせるときにはそれを喜んでいた。
二人のうちでコルネイユ師のほうがより独立的な精神をもっていた。クリストフは初めそれを予期していなかった。がしだいにクリストフは、彼の宗教的な自由な思想が、力強い清朗な熱のない神秘観が、きわめてしっかりしてることを認めていった。その神秘観は、彼の牧師としてのあらゆる思想、日常生活のあらゆる行為、あらゆる世界観照のうちに、沁《し》み通っていて、あたかもキリストが神のうちに生きていたと彼が信じてるところと同じように、彼をキリストのうちに生きさしていた。
彼は何物をもいかなる生の力をも、否定しなかった。彼にとっては、あらゆる宗教書は、古きと新しきとを問わず、宗教的なものと世俗的なものとを問わず、モーゼからベルトローにいたるまで、皆確実なものであり、崇高なものであり、神の言葉であった。そして、聖書はただそのもっとも豊かな見本であって、神のうちに結ばれたる同胞愛のもっとも高い優秀者が教会であるのと同じだった。しかしその聖書も教会も、一定不動な真理のうちに人の精神を閉じこめるものではなかった。キリスト教は、生けるキリストにほかならなかった。世界の歴史は、神という観念の不断の生長の歴史にすぎなかった。ユダヤ聖堂の没落、異教の世界の衰滅、十字軍の失敗、法王ボニファス八世の屈辱、眩暈《めまい》するばかりの広い空間に地球を投げ出したガリレオ、大なるものよりもさらに力強い極微なるもの、王権の終滅と和親条約《コンコルダ》の絶滅、すべてそれらのものは、一時人心を途方にくれしめた。ある人々は倒壊しかけてるものに必死とすがりついた。またある人々は手当たりしだいに板子をつかんで漂流した。しかるにコルネイユ師はただみずから尋ねた、「人間はどこにいるのか? 人間を生きさせるものはどこにあるのか?」なぜなら彼は、「生のあるところに神がある、」と信じていたから。――そしてまたそれゆえに、彼はクリストフにたいして同感をもっていた。
クリストフのほうでも宗教的な偉大な魂の美《うる》わしい音楽をふたたび聞くのはうれしかった。それは彼のうちに遠い深い反響を呼び起こした。不断の反動的な感情――強健な性質の人にあっては、生の一本能であり、自己保存の本能であり、危《あぶな》い場合に平衡を立て直して船を新たに躍進せしむる櫂《かい》の一撃であるところの、不断の反動的な感情――それによって、クリストフの心の中には、パリーの極端な疑惑と忌まわしい快楽主義とに接して、二年以前から、少しずつ神がよみがえってきつつあった。と言って彼は神を信じてるのではなかった。神を否定していた。しかし神に満たされていた。彼はその守護神たる善良な巨人のように、みずから知らないで神をになってるのだと、コルネイユ師は微笑《ほほえ》みながら言った。
「ではなぜ僕には神が見えないのでしょう?」とクリストフは尋ねた。
「あなたも他の多くの人たちと同様です。毎日神を見てはいるが、それを神だと知らないのです。神は種々の形で万人におのれを示しています――ある者には、ガリラヤにおける聖ペテロへのように、その日常生活のなかで――ある者には、(たとえばあなたの友人のヴァトレー氏には、)聖トマスへのように、治癒《ちゆ》を求めてる傷や苦痛のなかで――あなたには、おごそかなる理想のなかで、われに触るるなかれ[#「われに触るるなかれ」に傍点]のなかで……。いつかあなたも神を認めるようになるでしょう。」
「いやけっして僕は譲歩しません。」とクリストフは言った。「僕は自由です。」
「それならばなおさら神とともにいることになるでしょう。」と牧師は穏やかに言い返した。
しかしクリストフは、自分の心に反してキリスト教徒とされることを許し得なかった。自分の思想に何かの符牒《ふちょう》をつけられることがさも問題ででもあるように、率直な熱心さで自分を守った。コルネイユ師は、ほとんどわからないくらいわずかな聖職者的皮肉と多くの温情とで、彼に耳を傾けた。彼はその信仰の習慣に基づいてる不撓《ふとう》の忍耐をもっていた。現時の教会が受けてる困難から鍛えられていた。それらの困難のために大なる憂鬱を投げかけられながらも、また痛ましい精神上の危機を通過することさえ強《し》いられながらも、心の底は少しも害せられないでいた。もとより、上に立つ人々から圧迫され、あらゆる行動を司教らからうかがわれ自由思想家らからねらわれ、両者から争って思想を利用され自分の信仰に反する役目をさせられ、同宗者と反対者との両方から等しく理解されずに攻撃されるのは、残酷なことには違いなかった。反抗することはできなかった、なぜなら服従しなければならなかったから。けれど心から服従することはできなかった、なぜなら当局者のほうが間違ってるとわかっていたから。口をきき得ない苦しみ。口をきいて誤解される苦しみ。なおその上に、自分に責任がある他の多くの魂の存在、忠言を助力を求めつつ明らかに苦しんでる多くの人々の存在……。コルネイユ師はそれらの人々のためにまた自分のために苦しんだ。しかし彼は忍従した。教会の長い歴史に比ぶれば、それらの困難の日々はいかに些少《さしょう》なものであるかを知っていた。――ただ、無言の忍諦《にんてい》のうちに潜み込んでばかりいる間に、彼は徐々に貧血してゆき、ある臆病《おくびょう》さに、口をきくことを恐れる気分に、いつしかとらわれていって、わずかな行動もますますなしがたくなり、しだいに無言無為のうちに陥っていった。それをみずから感ずると、悲しくはあったが、しかしもう反抗しようとはしなかった。ところがクリストフと出会ったことは、彼にとって大なる支持となった。その隣人が示す年少気鋭な熱意や率直なやさしい同情は、また時としては不謹慎なその質問は、彼にとって非常にためになった。クリストフは彼を強《し》いて、生者の仲間に立ちもどらしめた。
電気職人のオーベルが、あるときクリストフの室で、この牧師と出会った。彼は牧師の姿を見るとびっくりした。嫌悪《けんお》の情をなかなか隠し得なかった。その最初の感情を押えたあとでもなお、この法服の男と顔を合わせると、いつもある気づまりな変な当惑を覚えた。彼にとっては、法服の男などはなんと言ってよいかわからない人物なのだった。それでも、教養ある人々と話をするうれしさから、反僧侶《はんそうりょ》主義の気持を制してしまった。彼はヴァトレー氏とコルネイユ師との間の親しげな調子に驚いた。民主的な牧師と貴族的な革命家とを見出したことにも、やはり同じく驚いた。それは彼がこれまで得てるあらゆる観念を覆《くつがえ》すものだった。彼は社会上のいかなる部類に彼らを置くべきかを迷った。彼は人を理解せんがために分類する必要を感じてたのである。ところが、アナトール・フランスやルナンのものを読み、それについて正当な正確な言葉を平気でくだしてる、この牧師の平穏な自由さは、いかなる所に置いてよいか容易にわからなかった。学問上の事柄においては、命令する人々からよりも知識ある人々から、コルネイユ師は導かれるのを常としていた。彼は権力を尊んではいた。しかしそれは彼にとっては、学問と同種のものではなかった。肉体と精神と慈愛、それは三つの部門であって、崇高な梯子《はしご》の、ヤコブの梯子の、三つの段であった。――善良なオーベルにはもとより、そういう精神状態を理解しがたかった。コルネイユ師はクリストフに、オーベルを見ると昔見たフランスの農夫たちのことを思い出すと、静かに話してきかした。一人の若いイギリスの女が、農夫たちに道を尋ねていた。彼女はイギリス語を話していた。農夫たちはそれがわからなかったけれど耳を傾けていた。それから彼らはフランス語を話した。彼女にはそれがわからなかった。すると彼らは気の毒そうに彼女をながめ、頭を振って、また仕事にかかりながら言った。「でも気の毒だなあ、あんなにきれいな娘さんだが……。」
初めのうちオーベルは、牧師とヴァトレー氏との学殖や上品な態度に気圧《けお》されて、彼らの会話を鵜《う》のみにしながら黙っていた。がしだいに、自分の話を聞いてもらう素朴《そぼく》な喜びに駆られて、会話の中にはいってきた。そして自分の漠然《ばくぜん》たる理論を並べたてた。相手の二人は内心いささか微笑しながら、丁寧に耳を貸してやった。オーベルは有頂天になって、なおそれだけでは満足しなかった。彼はコルネイユ師の限りない我慢を利用し、やがて図にのってきた。苦心|惨澹《さんたん》の原稿を読んできかせまでした。牧師はいつもあきらめて耳を貸していた。そしてさほど退屈してもいなかった。というのは、相手の言葉よりも人間のほうに多く耳傾けていたから。それにまた、気の毒がってるクリストフへ答えたとおりの理由もあった。
「なあに、あの人に限ったことではありません。」
オーベルはヴァトレー氏とコルネイユ師とをありがたがっていた。そしてこの三人は、たがいに相手の思想を理解しようともつとめずに、なぜとはなしにたがいに愛し合うようになった。そしてたがいにごく接近してるのを見出してびっくりした。彼らはそんなことをかつて思ったこともなかった。――クリストフが彼らを結びつけていたのである。
クリストフはまた、エルスベルゼの二人の娘とヴァトレー氏の養女との三人に、無邪気な味方を見出した。彼は彼女らの友だちとなった。彼は彼女らが孤立して暮らしてるのを苦にした。そして彼女らのおのおのに未知の隣人のことを噂《うわさ》して、たがいに会いたくてたまらない気を起こさした。で彼女らは窓から合図をかわしたり、階段でそっと言葉をかわしたりした。そのうえなおクリストフの尽力によって、彼女らはときどきリュクサンブールの園で会う許しを得た。クリストフは計画が成功したのを喜んで、彼女らが出会う最初のときには、自分で様子を見に行ってみた。すると彼女らは、きまり悪がってもじもじしていて、新たなその幸福をどうしていいかわからないでいた。彼はすぐに彼女らを打ち解けさせ、いろんな遊びや駆けっこや追いかけっこを考え出した。自分も十歳ぐらいな子供のように勢い込んで仲間入りした。散歩の人た
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