各地に暮らしてきた。かくて、パリーの擾乱《じょうらん》の間にも、またその後、外国へ亡命の間にも、帰国してからは政府に加担してる昔の仲間のうちにも、あらゆる革命党の内部にも、多くの卑劣な行ないを目撃したので、どの革命派からも身を引いて、一つの汚点もないしかし無益な自信だけを安らかに保有したのである。彼は多く書を読み、なまぬるい煽動《せんどう》的な書物を少し書き、遠くインドや極東の無政府主義運動に――(人の噂《うわさ》によれば)――関係をもち、世界の革命に従事し、また同時に、同じく世界的ではあるが外見上もっとやさしい研究に従事して、音楽の通俗教育のために、世界的言語と新しい方法とを求めていた。彼はその建物に住んでるだれとも交際しなかった。出会った者と極度に丁寧な辞儀をかわすだけにとどめていた。それでもクリストフへだけは、自分の考えた音楽上の方式について数言語った。ところがそれはクリストフにはもっとも興味のないことだった。クリストフに言わすれば、思想の符号は別に重大なことではなくて、いかなる言語をもってしても思想を表現し得るのだった。しかし向こうはそれでもなおやめずに、穏やかな執拗《しつよう》さで自分の学説を説明しつづけた。それ以外の彼の生活については、クリストフは何にも知ることができなかった。それで、階段で彼とすれちがって立ち止まるのも、常に彼の供をしてる少女を見るためにすぎなかった。色の蒼《あお》い貧血的な金髪の少女で、青い眼、ややとげとげしい横顔、細長い身体、あまり表情のない病身らしい様子だった。クリストフも皆の者と同じく、それをヴァトレーの実の娘だと思っていた。ところが実際は、労働者の孤児であって、流行病で両親が死んだ後、四、五歳のときに、ヴァトレーから養女にされたのだった。ヴァトレーは、貧しい子供たちにたいして、ほとんど無限の愛をいだいていた。それは彼にあっては、ヴァンサン・ド・ポール風な不思議な愛情だった。彼はあらゆる公式の慈善について疑念をもっていたし、博愛団体についてはいかに考うべきかも知っていたので、一人で慈善をするように心がけていた。彼はそれを人に隠して、ひそかな楽しみを味わっていた。社会に尽くすつもりで医学をも学んでいた。以前、彼は町内のある労働者の家にはいって、病人がいるのを見、その手当を始めた。そのときすでに医学上の知識を多少そなえていたが、それをさらに完全にしようと思いたったのだった。彼は病に苦しんでる子供を見ると、断腸の思いがして堪えられなかった。しかしまた、憐《あわ》れな小さき者の一人を病苦から救い出し得たときには、蒼《あお》ざめた微笑がその痩《や》せこけた顔に初めて現われてきたときには、いかにえも言えぬ喜びだったろう! ヴァトレーの心はとろけそうになった。天国的な瞬間だった……。そのために彼は、世話をしてやった者らについてしばしば厭《いや》な思いをしたことを忘れるのだった。彼らのうちで彼に感謝の意を表わす者はめったになかった。また一方では、きたない足をした多くの者が彼のところへ階段を上がってゆくのを見て、門番の女は腹をたて、苦々《にがにが》しげに苦情を言った。また家主のほうでは、無政府主義者らの会合ではないかと気づかって、いろいろ不平を言っていた。ヴァトレーは移転しようかと考えたが、それもめんどうだった。彼にはちょっとした癖があった。温和でもあり頑固《がんこ》でもあった。彼は人の言うことをそのまま放っておいた。
 クリストフはいつも子供らに愛情を示すので、多少ヴァトレーの好感を得た。子供にたいする愛が二人をつなぐ糸だった。クリストフはヴァトレーの少女に出会うことに、なんだか胸迫る思いがした。なぜなら、意識をまたずに本能がじかに見てとる神秘な形体の類似によって、その少女は彼にザビーネの娘を思い出させ、遠い最初の恋を、心からかつて消えなかった無言のやさしみをもってるあの儚《はかな》い面影を、彼に思い起こさしたのである。それで彼はその蒼白《あおじろ》い少女に興味をもった。彼女はかつて飛んだり駆けたりする姿を見せたことがなく、ほとんど人に聞こえる声をたてたことがなく、同年配の友だちを一人ももたず、いつも独《ひと》りで黙っていて、人形や木片で一つ所にじっと音もたてず遊びながら、ぶつぶつ唇《くちびる》を動かして何か独言《ひとりごと》を言っていた。やさしげで無頓着《むとんじゃく》だった。彼女のうちには何かよそよそしい落ち着かないものがあった。しかし養父は彼女をあまり愛しすぎてそれに気づかないでいた。ああ、その落ち着かなさ、そのよそよそしさ、それはわれわれの血肉を分けた子供たちのうちにさえ常に存在しないであろうか?……――クリストフは、その小さな孤独者を技師の娘たちと近づきになしてやろうとした。しかしエルスベルゼの
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