みの念を覚えた。彼はいったい子供が大好きだった。その隣の娘たちに階段で出会うと、いろんなやさしい素振りを見せた。娘たちは初め恥ずかしがっていたが、クリストフからいつも面白いことを言われたり菓子をもらったりしたので、やがて馴《な》れてきた。そして両親にも彼の噂《うわさ》をした。両親は初め、彼のそういう好意をかなり悪意の眼でながめていたが、ついにはその騒々しい隣人の磊落《らいらく》な様子に気が折れてしまった。それまでに彼らは一度ならず、頭の上のピアノの音や忌ま忌ましい騒ぎ――(というのは、クリストフは室の中が息苦しくて、檻《おり》の中の熊《くま》みたいに動き回っていた)――などを呪《のろ》ったものだった。両方で口をきき合うようになるには容易なことでなかった。クリストフのやや田舎《いなか》者じみた乱暴な様子に、ユリー・エルスベルゼはびっくりすることがあった。そして、このドイツ人と自分との間に遠慮の垣《かき》をいつまでも築いていて、その後ろに隠れようとしたけれど、そうはゆかなかった。善良なやさしい眼で人をながめる彼の強い快活な気分には、逆らうことができなかったのである。クリストフは時たま、その隣人から多少の打ち明け話を引き出し得た。いったいエルスベルゼは奇妙な精神の男で、勇敢であるとともに冷然たるところがあり、いらだちやすいとともに忍従的なところがあった。困難な生活をりっぱに切りぬけてゆくの元気はあったが、生活を更新するだけの元気はなかった。あたかも自分の悲観主義を正当視して喜んでるかのようだった。最近、ブラジルにおけるある有利な地位を、ある事業を監督することを、申し込まれたが、彼は、家族どもの健康にその気候が悪くはないかを恐れて、断わってしまった。
「では家族を残しておいたらいいでしょう。」とクリストフは言った。「一人で行って皆のために財産を作っていらっしゃい。」
「家族を残すんですって!」と技師は叫んだ。「なるほどあなたには子供がないから無理はありません。」
「たとい子供があったって、私はそうしか考えませんよ。」
「いやそんなことはけっして、けっして!……それにまた、国を去るんです。厭《いや》なことだ。ここで苦しんでるほうがましです。」
いっしょにつまらなく暮らすというだけのそういう国や家族の愛し方を、クリストフは奇異に思った。しかしオリヴィエはそれを理解した。
「まあ考えてみたまえ、」と彼は言った、「馴染《なじみ》のない土地で、愛する者たちから遠く離れて、そのまま死ぬかもしれないのだ! どんな厭なことでもそれよりはましだ。それにまた、これから幾年生きるかしれないが、それほど齷齪《あくせく》するにも及ぶまいじゃないか……。」
「いつでも死ぬことばかりを考えてろとでも言うのか!」とクリストフは肩をそびやかしながら言った。「それにもし死ぬことがあっても、愛する者たちの幸福のために奮闘しながら死ぬのは、無為無能のうちに消えてしまうよりはましじゃないか。」
同じ五階の小さいほうの部屋には、オーベルという電気職工が住んでいた。――この男は他の借家人たちから孤立して暮らしていたが、それはけっして彼のせいではなかった。彼は平民の出であって、もうけっして平民の間にもどるまいと熱望していた。病身らしい小男で、いかめしい顔をし、眼の上に筋があって、錐《きり》のように人を刺し通す鋭い直線的な眼つきをしていた。金褐色《きんかっしょく》の口|髭《ひげ》、嘲弄《ちょうろう》的な口、口笛を吹くような話し方、曇った声、首にまきつけてる絹ハンケチ、いつも加減が悪い上にのべつの喫煙癖のためさらに痛められてる喉《のど》、微弱な活動力、結核患者めいた気質。空威張《からいば》りと皮肉と悲痛との交じり合ってる様子だったが、激しやすい大袈裟《おおげさ》な率直なしかもたえず人生に欺かれてる精神が、その下に隠れていた。ある中流人の私生児だったが、彼はその父親の名も知らず、とうてい尊敬できない母親に育てられ、悲しい汚らわしい多くのことを幼年時代から見てきた。各種の職業をやってみ、フランス内を方々旅した。学問をしたいという感心な心がけで、非常な努力をして独修した。歴史、哲学、頽廃《たいはい》的な詩など、あらゆるものを読んでいた。芝居、美術展覧会、音楽など、あらゆるものに通じていた。中流人的な文学や思想を心から尊重していて、それに蠱惑《こわく》されていた。大革命の初めのころの中流人士らを逆上さした空漠《くうばく》熱烈な観念論に、心からしみ込んでいた。理性の無謬《むびゅう》さを、無際限の進歩――われいずこまでか登り得ざることあらん[#「われいずこまでか登り得ざることあらん」に傍点]――を、地上へ幸福の到来を、全能なる学問を、人類神を、人類の長子たるフランスを、確信していた。熱烈な軽
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