Bほんとに悪戯《いたずら》っ児《らこ》だこと!……そうだ、もうそれにきまっている。床板がきしった。扉《とびら》の向こうにいるのだ。けれど鍵《かぎ》がない。鍵! 彼女は引き出しの中のたくさんの鍵のうちから、大急ぎでそれを捜そうとする。これかしら、こちらかしら……いや、これではない……ああとうとう見つかった!……だが錠前の中に差し込めない。手が震えてる。彼女はあせる。急がなければならない。なぜ? それは彼女にもわからない。ただ急がなければならないことだけわかってる。急がなければ間に合わないだろう。扉の向こうにクリストフの息が聞こえてる……。ああこの鍵が!……ついに扉が開く。うれしい叫び声。彼だ。彼は彼女の首に抱きつく……。ああこの、悪戯《いたずら》な、よい、かわいい児!……

 彼女は眼を開いた。彼がすぐ前にそこに立っていた。
 先ほどから彼は、変わりはてた彼女をながめていた。痩《や》せはてかつ脹《は》れぼったいその顔、諦《あきら》めの微笑をさらに痛ましくなしてるその無言の苦悩、それから、静けさ、周囲の寂寞《せきばく》さ……。彼は心を刺し通される心地がした……。
 彼女は彼を見た。別に驚きはしなかった。えも言えぬ微笑を浮かべた。彼女は腕を差し出すことも言葉をかけることもできなかった。彼は彼女の首に抱きついた。彼は彼女を抱擁し、彼女も彼を抱擁した。太い涙が彼の頼《ほお》に流れた。彼女はごく低く言った。
「ちょっと待って……。」
 彼は彼女が息づまってるのを見てとった。
 二人は身動きもしなかった。彼女は両手で彼の頭を撫《な》でていた。彼の涙はなお流れつづけた。彼は顔を蒲団《ふとん》に埋めてすすり泣きながら、彼女の手に接吻《せっぷん》した。
 苦しみが過ぎ去ると、彼女は口をきこうとした。しかし言葉が見つからなかった。彼女は思い違いをしていた。そして彼にはよく訳がわからなかった。しかしそれがなんだろう? 二人は愛し合っており、たがいに見合っており、たがいに触れ合っているのだった。それこそ肝要なことだった。――彼女はどうして一人ぽっちにされてるのか、彼は憤慨して尋ねた。彼女は世話をしてくれてる女を弁護した。
「あの人はいつもここに来てるわけにはゆきません。自分の仕事があるんですから……。」
 すべての音《おん》をはっきり出せない切れ切れの弱い声で、彼女は急いで、墓のことについて少し注文をした。それから、母を忘れてる他の二人の息子《むすこ》へも、自分の愛情を伝えてくれとクリストフに頼んだ。オリヴィエのことについても一言いい残した。彼女はクリストフにたいするオリヴィエの愛情を知っていた。オリヴィエへ祝福を送る――(彼女はすぐにおずおず言い直してもっと謙遜《けんそん》な言葉を用いて)――「敬意をこめた愛情」を送る旨を、伝えてほしいとクリストフに頼んだ……。
 彼女はまた息が詰まった。彼は彼女をささえて寝床の上にすわらせた。汗が顔に流れていた。彼女は微笑《ほほえ》もうとつとめていた。息子《むすこ》に手をとられてる今ではもう世に望みのこともないと、心に思っていた。
 クリストフは突然、自分の手の中で母の手が痙攣《けいれん》するのを感じた。ルイザは口を開いた。彼女は限りないやさしさで息子をながめた。――そしてこの世を去った。

 その日の夕方、オリヴィエがやって来た。彼は自分がしばしば経験したことのあるそういう悲痛なおりに、クリストフを一人きりにしておくことが、考えても堪えられなかった。それにまた、友がドイツにもどると危険な身の上であることをも、非常に気づかった。彼は友の身を警戒しに行きたがった。しかしそこまで行くだけの金がなかった。クリストフを送っていった停車場から帰ってきて、彼は家に伝わってる多少の宝石を金に代えようと決心した。もう質屋はしまってる時刻だし、つぎの汽車で出発したくはあったので、町の骨董《こっとう》屋へ行こうとした。すると階段でモークに出会った。モークは彼の考えを聞くと、なぜ自分に話してはくれなかったかと心からの恨みを示した。必要な金高を無理に受け取らした。自分が喜んで二人の世話をしたがってるのに、オリヴィエは時計を入質し書物を売ってクリストフの旅費をこしらえたと考えると、うらめしかった。そして二人の助けとなりたい熱心のあまりに、自分をもクリストフのもとへ連れて行ってくれと言い出した。それを思い切らせるのにオリヴィエはたいへん骨が折れた。
 オリヴィエが来たことは、クリストフのためによかった。クリストフはその一日を、永眠してる母と二人きりで失望落胆のうちに過ごした。世話をしてくれてた隣の女が来て、多少のめんどうをみてくれ、それから帰っていって、もうふたたび姿を見せなかった。事もない痛ましい静寂のうちに、時が過ぎていった。クリストフも
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