チた。彼女は時間があまり正確でなくて、往々来るのも遅れがちのことがあった。ルイザは自分の病気を当然のこととしていたが、それとともにまた、人から忘れられるのも当然のこととしていた。彼女は苦しむのに馴《な》れきっていて、天使のような忍耐をもっていた。常に心臓が悪くて、ときどき息づまりがし、その間は死ぬような思いをした。眼はぼーっとうち開いて、両手はひきつり、汗が顔に流れた。でも彼女は愚痴をこぼさなかった。当然の容態だと心得ていた。もう死の覚悟をしていた。臨終の秘蹟《サクラメント》をも受けてしまっていた。気がかりなことはただ一つきりだった。すなわち天国にはいるにふさわしい者でないと神から思われはすまいかということだった。その他のことはみな辛棒強く甘受していた。
 その侘《わ》びしい室の薄暗い片隅《かたすみ》に、寝所の枕頭《ちんとう》の壁面に、彼女は思い出の聖殿をこしらえていた。三人の息子《むすこ》、夫――彼女は夫の思い出にたいしてはなお初婚時代の愛情を失わないでいた――老祖父、兄のゴットフリートなど、すべて親愛な人たちの面影をいっしょに集めていた。また少しでも自分に親切を尽くしてくれた人たちにたいしては、いじらしい愛着の念をいだいていた。敷布の、顔に近いところには、クリストフから送ってきた最近の写真を針で留めていた。またクリストフの新しい手紙を枕の下に置いていた。彼女はりっぱに片付けて細かなところまできれいにしておくのが好きだった。室の中がすっかり整っていないと気持が悪かった。彼女は一日のいろんな時刻を示してくれる戸外のかすかな物音に興味をもっていた。もう長い前からそれを聞きなれていたのである。彼女の一生はその狭い場所の中で過ごされたのだ……。彼女はよく大事なクリストフのことを考えていた。今自分のそばに彼がいたらと彼女はどんなに望んでいたろう! けれども彼が今自分のそばにいないということをも、彼女はもうあきらめていた。天で彼に会えると信じていた。眼をつぶりさえすればもう彼の姿が浮かんできた。彼女はうつらうつらと過去の思い出のなかに日々を過ごした……。
 彼女はライン河畔の昔の家にいるところを思い浮かべた……。ある祝日……ある美《うる》わしい夏の日、窓は開いていた。白い大道の上に太陽の光が輝いていた。小鳥のさえずる声が聞こえていた。メルキオルと祖父とが扉《とびら》の前に腰をおろして、大声に談笑しながら煙草《たばこ》を吹かしていた。ルイザにはその二人の姿は見えなかった。けれど、その日夫が家にいることや、祖父が上|機嫌《きげん》であることなどが、非常にうれしかった。彼女自身は下の室にいて、食事の支度をしていた。りっぱな御馳走《ごちそう》だった。彼女はそれを自分の眼の玉ほど大事に見守っていた。びっくりするようなものがあった。大栗《おおぐり》の菓子があった。子供がさぞ喜びの声をたてるだろうと、聞かないうちから楽しんでいた……。子供、彼はどこにいるのかしら? 階上《うえ》にいるのだった。その音が聞こえていた。ピアノを稽古《けいこ》していた。何をひいてるのか彼女にはわからなかった。けれど、そのいつもの小さな妙音を耳にしたり、子供がそこにごくおとなしくすわってるのがわかったりするのが、彼女にはうれしかった……。なんという美《うる》わしい日だろう! 馬車の陽気な鈴音が道を通っていた……。ああ実にいい! そして焼き肉は? 窓から外を見てる間に焦げやしなかったかしら。ごく好きではあるがまた恐《こわ》くもある祖父から、怒られ叱《しか》られはすまいかと、彼女はびくびくしていた……。が仕合わせにも焼き肉は無事だった。そら、すっかりでき上がったし、食卓も整った。彼女はメルキオルと祖父とを呼んだ。彼らは威勢よく返辞をした。それから子供は?……もうひいていなかった。先刻からピアノの音はやんでいたが、彼女は気がつかないでいた……。「クリストフ!」……どうしてるのだろう? なんの音も聞こえなかった。いつも彼は食事に降りてくるのを忘れがちだった。父がまた怒鳴りつけるかもしれなかった。彼女は大急ぎで階段を上がっていった……。「クリストフ!」……返辞がなかった。彼女は彼の勉強室の扉《とびら》を開いてみた。だれもいなかった。室は空《から》だった。ピアノには蓋《ふた》がしてあった……。彼女は心配になった。彼はどうなったのかしら? 窓が開いていた。あ、落ちたのじゃないかしら!……彼女ははっとした。身を乗り出してながめてみる……。「クリストフ!」……どこにもいない。彼女は方々の室を見て回る。下から祖父が大声に言っている。「おいでよ、心配することはない。きっとあとから出て来る。」彼女は降りて行きたくない。彼がその辺にいることはわかっている。冗談に姿を隠して、母を心配させようとしてるのだ
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