蛯、ぜつ》といつも変わらぬ上機嫌《じょうきげん》とを愉快がっていた。それでも彼はやはり、その職人や仲間の勤勉な動物どもが、家の前に障壁を築き上げ、光を奪うことを、呪《のろ》わずにはいられなかった。オリヴィエはあまり不平をこぼさなかった。眼界をふさがれることに慣れていった。あたかも圧搾された思想が自由な空へ吹き出すデカルトの暖炉に似ていた。しかしクリストフには空気が必要だった。彼はその狭い場所に幽閉されて、そのうめ合わせとして、周囲の人々の魂へ交渉していった。それらの魂を吸い込んで、それを音楽とした。オリヴィエは彼が恋でもしてるような様子だと言った。
「もし僕が恋をしたら、」とクリストフは答えた、「僕は自分の恋愛以外のものは、何物も見ず、何物も愛せず、何物にも興味をもたなくなるだろうよ。」
「ではいったいどうしたんだ?」
「ごく達者なんだ、腹がすいてるんだ。」
「君は幸いだ!」とオリヴィエは嘆息した。「君の食欲を、僕らにも少し分けてくれるといいがね。」
 健康は感染的なものである――ちょうど病気のように。その健康の力の恩恵を最初に感じたのは、もとよりオリヴィエだった。そしてその力こそ、彼にもっとも不足してるところのものだった。彼は世の卑陋《ひろう》さが厭《いや》になって、世の中から引退していた。大なる知力と異常な芸術家的天分とをもっていながら、大芸術家となるにはあまりに繊弱だった。およそ大芸術家たるものは、何物をもいやがらないものである。あらゆる健全なる者の第一の掟《おきて》は、生活するということである。天才にあってはそれがなお強力となる。天才はより多く生活するからである。ところがオリヴィエは生活から逃げていた。身体も肉も現実との関係もない詩的作為の世界に、漂い浮かんでいた。世には、美を見出そうとして、もう過ぎ去った時代のうちに、もしくはかつて存在しなかった時代のうちに、美を捜し求めたがる人々がいるが、オリヴィエもその一人だった。人生の飲料は、今日では昔ほど人を酔わせるものではないと思ってるかのようである。かかる疲れた魂の人々は、人生との直接の接触をきらい、人生を堪え得るのはただ、過去の隔てによって織り出される幻影の帷《とばり》を通してであり、昔生きてた人々の死語を通してである。――クリストフとの交わりは、オリヴィエをそういう芸術の幽界からしだいに引き出した。彼の魂の深所に、太陽の光がさし込んできた。
 技師のエルスベルゼもまた、クリストフの楽観主義に感染していった。でもそれは彼の習慣の変化となって現われはしなかった。彼の習慣はあまりに根深いものだった。フランスを去って他国へ成功を求めに行くほど、彼の気持を冒険的にならせることは、とうてい望み得られなかった。それはあまりに大なる要求だった。しかし彼は無気力の状態から脱した。長い前から打ち捨てている研究や読書や科学的の仕事に、ふたたび趣味をもちだした。かく自分の職業に興味がふたたび眼覚《めざ》めてきた原因は多少クリストフにあるということを、彼は聞かされたら定めし驚いたであろう。そしてクリストフのほうはさらに驚いたであろう。

 家じゅうでクリストフがもっとも早く交際を結んだのは、三階の小さいほうの部屋の人たちだった。彼はその扉《とびら》の前を通るとき、一度ならずピアノの音に耳傾けた。それは若いアルノー夫人が一人きりのときに好んでひいてるものだった。そこで彼は、自分の音楽会への切符をその夫妻へ送った。彼らはそれを心から感謝した。それ以来彼は晩にときどき訪問してみた。若い婦人の演奏はもうまったく聞こえなくなった。彼女は非常に内気で人前ではひけなかった。一人きりのときでさえ、階段から聞く人があることを知ってる今では、弱音器をかけることにしていた。しかしクリストフは夫妻のために演奏してやった。そして皆で長く音楽の話にふけった。アルノー夫妻は若々しい心で話し、クリストフはそれをたいへん喜んだ。これほど音楽を愛するフランス人があろうとは、彼は思っていなかったのである。
「それは君が今まで、」とオリヴィエは言った、「音楽家にしか会わなかったからだ。」
「僕だって、」とクリストフは答えた、「音楽家はもっとも音楽を愛しない者であることを知っている。しかし君たちのような人がフランスに多数あろうとは、僕にはどうしても考えられない。」
「数千人いるさ。」
「それでは、それは一種の流行病だ、ごく最近の流行だろう。」
「流行の事柄ではありません。」とアルノーは言った。「楽器の楽しき和音や自然の声の楽しきを聞きながら[#「楽器の楽しき和音や自然の声の楽しきを聞きながら」に傍点]、それを少しも[#「それを少しも」に傍点]悦《よろこ》ぶことなく[#「ぶことなく」に傍点]、少しも感動することなく[#「少しも感動するこ
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