「。」
「ではシュトラウスをきけというのか。」
「それもいけない。君たちを破滅させるばかりだ。そんな不養生な物を飲み込んでもちこたえるには、僕たちドイツ人みたいな胃袋をもっていなくちゃいけない。でもドイツ人でさえ実はもちこたえ得ないんだ……。シュトラウスのサロメ[#「サロメ」に傍点]……傑作だ……けれど僕はそれが書かれたことを好まない……。僕は憐《あわ》れな老祖父や叔父《おじ》ゴットフリートのことを思い出す。彼らはいかに深い尊敬としみじみとした愛情とで、この音響の逸品たるサロメ[#「サロメ」に傍点]のことを僕に話してきかしたろう!……ああいう崇高な力を自由に駆使し、しかもあんなふうに使用するとは!……それは炎を発してる流星だ! ユダヤの娼婦《しょうふ》たるイゾルデ姫だ。痛ましい獣的な淫乱《いんらん》だ。ドイツの頽廃《たいはい》の底に唸《うな》ってる、殺害や強姦《ごうかん》や不倫や犯罪などの熱狂だ……。そして、君たちのほうには、フランスの頽廃のうちに呻《うめ》いてる、逸楽的な自殺の発作がある……。一方は獣、そして一方は餌食《えじき》。それで人間はどこにいるのだ?……君たちのドビュッシーは良趣味の天才であり、シュトラウスは悪趣味の天才である。前者は無味乾燥であり、後者は不愉快である。一方は、銀色の池であって、葦《あし》の中に隠れ、熱気ある匂《にお》いを発散さしている。一方は、泥《どろ》立った急湍《きゅうたん》であって、……末期イタリー趣味と新マイエルベール式との匂いがあり、感情の醜悪な塵芥《じんかい》がその泡《あわ》の下に流れている……。嫌悪《けんお》すべき傑作だ。イゾルデの生み出したサロメだ。……そしてこんどはサロメから、何者が生まれるかわかったものではない。」
「そうだ、」とオリヴィエは言った、「半世紀ほど前進したいものだ。こういうふうに深淵《しんえん》に向かって突進することは、どうにかしてやめなければいけないだろう。あるいは馬が立ち止まるか倒れるかしてもいい。そのときになってわれわれは息がつけるだろう。ありがたいことには、音楽があってもなくても、やはり地には花が咲くだろう。こんな非人間的な芸術になんの用があるのだ!……西欧は燃えつきてる……がやがて……やがて……いや僕にはもうすでに、立ちのぼってくる他の光明が見える、東方の彼方《かなた》に。」
「君の東方諸国のことなんかよしてくれ!」とクリストフは言った。「西欧だってまだ終局には達していない。君はこの僕が諦《あきら》めをつけるとでも思ってるのか。まだ未来幾世紀もある。生活は万歳なるかなだ。喜びは万歳なるかなだ。運命との戦いは万歳なるかなだ。われわれの心を脹《ふく》れ上がらしむる、愛は万歳なるかなだ。われわれの信念を温めてくれる友情は――愛よりもなお楽しき友情は、万歳なるかなだ。昼は万歳なるかなだ。夜は万歳なるかなだ。太陽に光栄あれ! 神を讃《ほ》め称《たた》えんかな、夢想と実行との神を、音楽を創《つく》れる神を! ホザナ!……」
そこで彼はテーブルについて、今まで何を言ったかはもう考えないで、頭に浮かんでくることを書きとめた。
クリストフはそのとき、彼のすべての生の力が完全に平衡してる状態にあった。あれやこれやの音楽形式の価値に関する美学的論議にも、または新しいものを創造せんとの合理的探究にも、煩わされることがなかった。音楽に移すべき題目を見出すために骨折る必要さえなかった。彼にとってはすべてのものがいいのだった。音楽はひとりでに滔々《とうとう》と流れ出してきて、いかなる感情を表現してるのか彼自身でも知らなかった。彼はただ幸福であるばかりだった。自分を発露することが幸福であり、自分のうちに普遍的な生命の脈搏《みゃくはく》を感ずるのが幸福であった。
そういう喜びと豊満とは、彼の周囲の人々へも伝わっていった。
四方ふさがってる庭園付きのその建物は、彼にはあまりに小さすぎた。大きな径《みち》と百年以上もの古木とのある静寂な隣の修道院の広庭を、初めは見おろすことができていたけれど、それはあまりによすぎて長つづきはしなかった。ちょうどクリストフの室の窓の正面に、七階建ての家が建築されかかっていて、そのために眺望《ちょうぼう》がさえぎられ、クリストフは四方を閉ざされてしまった。愉快なことには、滑車のきしる音や、石をけずる音や、板を打ち付ける音などが、毎日朝から晩まで聞こえてきた。その労働者の間には、先ごろ彼が屋根の上で知り合いになった屋根職人もいた。二人は遠くから合図で親しみを通じ合った。あるときなど、彼はその職人に往来で出会って、酒場へ連れて行き、いっしょに飲んだことさえあった。オリヴィエはびっくりして眉《まゆ》をしかめた。がクリストフは、その男の滑稽《こっけい》な饒舌《じ
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