二時間もぶらぶらしたのであって、ヘヒトの家での面会時間をも忘れ、朝じゅう無駄にしてしまったことを見てとった。みずから笑い出して、口笛を吹きながら帰りかけた。商人の呼び売りの声に基づいてカノンのロンド[#「ロンド」に傍点]を吹いた。悲しい旋律《メロディー》も彼のうちでは喜びの調子となった。同じ町内の洗濯《せんたく》屋の前を通りかかると、いつものとおり、店の中をじろりと横目で見やった。色|艶《つや》のない火にほてった赤毛の小娘が、その痩《や》せ細った両腕を肩の近くまで裸にし、胸衣をくつろげて、火熨斗《ひのし》をかけていた。彼女はいつものとおり厚かましい色目を使ってみせた。その眼つきが彼の眼に出会っても、彼は初めていらだたなかった。彼はなお笑った。自分の室にもどったが、今まで気がかりだった事柄も何一つ眼に留まらなかった。帽子や上衣や胴衣《チョッキ》を左右に投げ出して、世界を征服するような元気で仕事にかかった。あちらこちらに散らかってる音楽の草稿を取り上げた。が心はそこになかった。ただ眼で読んでるばかりだった。数分間たつと、頭がぼんやりして、リュクサンブールの園にいたときと同じく、楽しい夢心地に陥っていった。彼は二、三度それにみずから気づいて、はっきり我に返ろうとした。しかし無駄だった。快活に叫び散らし、立ち上がって、冷水の盥《たらい》に頭をつき込んだ。それで少し酔い心地からさめた。黙ってぼんやり微笑を浮かべながら、テーブルのところにもどってすわった。彼は考えた。
「これと恋愛との間に違いがあるかしら?」
 本能的に彼は、あたかも恥ずかしがってるかのようにそっと考えていた。彼は肩をそびやかした。
「愛するのに二つの仕方はない……いやむしろ二つある。自分の全部を挙げて愛する仕方と自分の皮相な部分のわずかだけをささげて愛する仕方とだ。俺《おれ》は後者のような吝《し》みったれた心をもちたくないものだ!」
 それから先は一種の羞恥《しゅうち》を覚えて、考えるのをやめた。そして長い間じっと、内心の夢想に微笑《ほほえ》みかけていた。彼の心は沈黙のなかに歌っていた。
 ――君は私のもの。そして今や初めて、私はまったく私のもの……。
 彼は紙をとって、心が歌ってることを静かに書きつけた。

 二人はいっしょの部室《へや》に住もうときめた。クリストフは半期分の部室代《へやだい》を無駄にするのも構わず、すぐに移り住もうとした。オリヴィエはいっそう細心であって、愛情が少ないのではなかったが、今の部室代の期限がつきるまで待とうと勧めた。クリストフにはそういう計算がわからなかった。金をもたない連中の多くと同じく、彼は金を失うことをなんとも思わなかった。そしてオリヴィエが自分よりなおいっそう困窮してるのだろうと想像した。ある日彼は、友の窮乏に驚いて、ふいとそのもとを去り、二時間後に、ヘヒトから前借りしてきた五フランの貨幣を数個、得意げに並べだした。オリヴィエは顔を赤らめて断わった。クリストフは不満に思って、中庭で音楽をやってたイタリー人へ、その金を投げ与えようとした。オリヴィエはそれを引き止めた。クリストフは立ち去った。表面は気持を悪くした様子をしていたが、実際では、オリヴィエから断わられたのも自分のへまなせいだとして、自分自身に腹がたっていた。ところが友の手紙で、その不|機嫌《きげん》は慰められた。オリヴィエは、彼と知り合いになった喜びや彼が自分のためにしてくれようとした事柄にたいする感激など、すべて声高に言い得なかったことを書いてよこした。クリストフは感情のあふれた狂気じみた返事を出した。十五歳のおり、友のオットーに書いた手紙と似たものだった。情熱と支離滅裂な言葉とに満ちていた。フランス語やドイツ語の駄洒落《だじゃれ》を交えていた。その駄洒落に楽譜をつけてまでいた。
 二人はついに住居を定めた。モンパルナス町のうちで、ダンフェール広場の近くに、古い家の六階に、台所付三室の住居を見出していた。室は皆狭かったが、四方を大きな壁で囲まれた小さな庭に臨んでいた。二人が住んでる六階からは、他よりも少し低い正面の壁越しに、パリーになお多く見受けるような、人に知られないで隠れてる修道院の大きな庭を、ずっと見渡すことができた。そのひっそりした庭の小径《こみち》には人影もなかった。リュクサンブールのそれよりもいっそう高くいっそう茂ってる老木が、日の光を受けてそよいでいた。小鳥の群れがさえずっていた。夜明けごろから笛のような鶫《つぐみ》の鳴き声がし、つぎには騒々しいリズムの雀《すずめ》の合唱となった。そして夕方になると、夏には、輝かしい空気をつき切って空に滑走する燕《つばめ》の、狂気じみた鋭い叫びが聞こえた。夜は、月光の下で、池の水面に立ちのぼる泡《あわ》に似た、蝦蟇《がま》の
前へ 次へ
全84ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング