「。美徳は自然的な事柄ではない。それは人間がこしらえ出したものだ。でそれを保護しなければいけない。人間の社会は、他の者よりも強い偉大な少数の人によって建てられたのだ。その雄壮な製作物を犬みたいな心を持った賤民《せんみん》どもから害されないようにすることこそ、人間の務めである。」
そういう思想は、要するに、オリヴィエの思想と大して異なってはいなかった。しかしオリヴィエは、平衡を欲するひそかな本能よりして、もっとも享楽的な気持で戦闘的な言葉を聞き流した。
「そうやきもきするなよ。」と彼はクリストフに言った。「世界をして死ぬがままにさしておくがいい。デカメロンの仲間のように、思想の花園の香ばしい空気を平和に呼吸しようよ。薔薇《ばら》の花でとりまかれた糸杉の丘の周囲では、フロレンスの町が黒死病《ペスト》に荒らされていたって、構わないじゃないか。」
彼はその幾日もの間、芸術や学問や思想などの隠れた機械装置を探るために、それを分解して面白がっていた。そのためにいつしか懐疑癖に陥ってしまって、すべて存在するものは、もはや精神の作為にすぎなくなり、空中の楼閣にすぎなくなり、あたかも幾何学の図形のように、人の精神に必要であるとの口実をも失ってしまっていた。クリストフは憤慨した。
「機械はうまくいっているのに、なぜ分解するんだ。君はそれをこわしてしまうかもしれない。無駄な骨折りをしたことになるばかりだ。いったい君は何を証明したいのか。つまらないものはつまらないということをか。なあに、そんなことは僕にだってよくわかってる。われわれが戦うのは、四方から空虚が侵入してくるからだ。何も存在しないというのか……。しかしこの僕は存在している。活動の理由がないというのか……。しかしこの僕は活動している。死を好む奴らは、望みどおり死んでゆくがいい。しかしこの僕は生きてるし、生きることを欲するのだ。秤《はかり》の一方の皿《さら》に僕の生命をのせ、他の皿に思想をのせるとすれば……思想なんか鬼に食われてしまえだ!」
彼はいつもの乱暴さに駆られていたし、議論をしながら人の気を害する言葉を発していた。がそれを言ってしまうとすぐに後悔した。それを取り消したかった。しかしもうあとの祭りだった。オリヴィエはたいへん感じやすかった。すぐに擦《す》りむける皮膚をもっていた。ひどい一言を聞くと、ことに愛してる者からひどい一言を聞くと、胸せまる思いをした。彼は高慢心からそれを口には出さず、自分自身のうちに潜み込んだ。そのうえ彼は、あらゆる大芸術家のうちにある無意識的利己心の突然の閃《ひらめ》きを、友のうちに認めないではなかった。そしてある場合には、自分の生命もクリストフにとっては、美《うる》わしい音楽に比して大した価値をもってはしないと、感ずるのであった。――(クリストフはそのことを彼に隠すだけの労をほとんど取らなかった。)――彼はよくそのことを理解して、クリストフのほうが道理だと思った。しかしそれは悲しいことだった。
それにまた、クリストフの性質中には各種の混濁した要素があって、オリヴィエにはそれがよく理解できず不安を覚えさせられた。それは奇怪な恐ろしい気分の突発だった。ある時は口をききたがらなかった。あるいはまた、ひどい意地悪をしたがって人を困らせようとばかりした。または、身を隠してしまって、その一日じゅう晩まで姿を見せなかった。あるときなどは二日間も引きつづいていなくなった。何をしてるのかだれにもわからなかった。彼自身もよくは知らなかった。……実際、彼の力強い性質は、その狭い生活と住居の中に、あたかも鶏小屋の中へでも入れられたように押し縮められて、ときどき爆発しかけていた。友の落ち着いてる様が腹だたしかった。するとその友をいじめてやりたくなった。そしては逃げ出して自分と自分を疲らさなければならなかった。パリーの街路や郊外をうろつき回って、ぼんやり何かの冒険を求め歩いた。そして時にはそれにぶつかった。悪い奴に出っくわして満ちあふれた力を喧嘩《けんか》に費やしてしまうようなことでも、彼には平気だったろう……。オリヴィエは憐《あわ》れな健康と肉体の弱さとのために、そのことを理解しかねた。がクリストフ自身にもよくわかってはいなかった。疲れ多い夢から覚《さ》めるように、それらの迷蒙《めいもう》から眼を覚ました――自分のしたことや、これからまだしかねないことなどが、やや恥ずかしくもあり不安でもあった。しかしその狂乱の突風が吹き去ると、あたかも雷雨のあとの広い洗われた空のように、あらゆる穢《けが》れから清められ朗らかになり主権者となった自分自身を、彼はふたたび見出すのだった。オリヴィエにたいしては前よりいっそうやさしくなり、苦しみをかけたことを心痛していた。二人がなんでちょいちょい争い
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