アろと同じように、彼をキリストのうちに生きさしていた。
 彼は何物をもいかなる生の力をも、否定しなかった。彼にとっては、あらゆる宗教書は、古きと新しきとを問わず、宗教的なものと世俗的なものとを問わず、モーゼからベルトローにいたるまで、皆確実なものであり、崇高なものであり、神の言葉であった。そして、聖書はただそのもっとも豊かな見本であって、神のうちに結ばれたる同胞愛のもっとも高い優秀者が教会であるのと同じだった。しかしその聖書も教会も、一定不動な真理のうちに人の精神を閉じこめるものではなかった。キリスト教は、生けるキリストにほかならなかった。世界の歴史は、神という観念の不断の生長の歴史にすぎなかった。ユダヤ聖堂の没落、異教の世界の衰滅、十字軍の失敗、法王ボニファス八世の屈辱、眩暈《めまい》するばかりの広い空間に地球を投げ出したガリレオ、大なるものよりもさらに力強い極微なるもの、王権の終滅と和親条約《コンコルダ》の絶滅、すべてそれらのものは、一時人心を途方にくれしめた。ある人々は倒壊しかけてるものに必死とすがりついた。またある人々は手当たりしだいに板子をつかんで漂流した。しかるにコルネイユ師はただみずから尋ねた、「人間はどこにいるのか? 人間を生きさせるものはどこにあるのか?」なぜなら彼は、「生のあるところに神がある、」と信じていたから。――そしてまたそれゆえに、彼はクリストフにたいして同感をもっていた。
 クリストフのほうでも宗教的な偉大な魂の美《うる》わしい音楽をふたたび聞くのはうれしかった。それは彼のうちに遠い深い反響を呼び起こした。不断の反動的な感情――強健な性質の人にあっては、生の一本能であり、自己保存の本能であり、危《あぶな》い場合に平衡を立て直して船を新たに躍進せしむる櫂《かい》の一撃であるところの、不断の反動的な感情――それによって、クリストフの心の中には、パリーの極端な疑惑と忌まわしい快楽主義とに接して、二年以前から、少しずつ神がよみがえってきつつあった。と言って彼は神を信じてるのではなかった。神を否定していた。しかし神に満たされていた。彼はその守護神たる善良な巨人のように、みずから知らないで神をになってるのだと、コルネイユ師は微笑《ほほえ》みながら言った。
「ではなぜ僕には神が見えないのでしょう?」とクリストフは尋ねた。
「あなたも他の多くの人たちと
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