純な態度だった。雑誌エゾープ[#「エゾープ」に傍点]の自称懐疑家らは、実はもっとも鍛錬された信念の所有者だった。しかし一般の眼から見れば、その皮肉の仮面は、もとよりあまり魅力をもたなかった。むしろ人を閉口させるに適していた。単純な明快な剛健な確実な生活の言葉を与えられるときにのみ、民衆は味方してくる。民衆は貧血せる真理よりも強健なる虚偽のほうを好む。懐疑主義が民衆の気に入るのは、それがある愚鈍な自然主義かキリスト教的偶像崇拝かを隠し持ってるときのみである。エゾープ[#「エゾープ」に傍点]誌がまとってる蔑視的な懐疑説は、その隠れたる堅固さを知ってる少数の人々――蔑視的なる魂[#「蔑視的なる魂」に傍点]――からしか耳傾けられることはできなかった。その力は行動にとっては無役なものだった。
 彼らはそれを意に介しなかった。フランスが民主的になればなるほど、その思想、その芸術、その学問は、ますます貴族的になるかの観があった。学問は、その特別な言葉の後ろに隠れ、専門家しか払いのけることのできない三重の幕に覆《おお》われて、聖殿の奥にこもっているので、ブュフォンや百料全書派《アンシクロペディスト》のころよりもさらに近づきにくくなっていた。芸術――少なくとも、おのれを尊敬し美を崇拝してる芸術は――やはり同じく閉鎖的だった。それは民衆を軽蔑していた。美よりも行動のほうを多く頭に置いてる作家らの間にも、美的観念よりも道徳的観念のほうを重んじてる作家らの間にも、しばしば一種妙な貴族的精神がみなぎっていた。彼らは内心の炎を他人に伝えることよりも、自分のうちにその純潔を保つことのほうを、より多くつとめてるかのようだった。あたかも、おのれの観念に勝利を得させることよりも、それをただ肯定することばかりを欲してるかのようだった。
 けれども多数のうちには、大衆的な芸術に関係してる者もないではなかった。そのもっとも真面目《まじめ》なある者らは、自分の作品のうちに、無政府主義的な破壊的な観念や、遠い未来の真理などを投げ込んでいた。その真理も、一世紀後には、あるいは二、三十年後には、おそらくは有益なものとなるかもしれないが、しかし現在では、人の魂を腐食し焼きつくしてるのみだった。またある者らは、幻をもたないごく寂しい、苦《にが》い作や皮肉な作を書いていた。クリストフはそういう作品を読むと、二、三日は意気
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