殺を手きびしく非難した。ジャンナン夫人は夫を弁護した。上院議員は言い進んだ。銀行家のあの行動は不正直から出たことではないが、愚昧《ぐまい》から出たことは明らかである。彼は馬鹿者であり迂闊者《うかつもの》であって、だれにも相談せず、だれの意見にも耳を傾けず、自分一人の考えでばかり事を行なおうとしたのだ。それでも、彼が一人で没落したのなら、何も言うことはない。当然のことだから。しかし――他人をも没落のうちに引き込んだことは言うまでもなく――妻と子供たちとを困窮のうちに投じておいて、なんとかやってゆくままに打ち捨てて置きざりにしたこと……それは、聖者のようなジャンナン夫人の眼から見たら許されもしようが、しかしこの上院議員は、聖者(saint)ではなくて、単に健全(sain)なる人間――健全で思慮あり理性ある人間――であることを誇りとしているので、許すべきなんらの理由をももってはいない。そんな場合に自殺するような男は、悪い奴《やつ》だというべきである。ただジャンナンを弁護し得る唯一の酌量すべき事情は、彼にまったく責任があるのではなかったということである。そこで、上院議員はジャンナン夫人に向かって、彼女の夫について多少|苛酷《かこく》な言い方をしたことを詫《わ》び、それも実は彼女に同情したからのことであると言い、そして引き出しを開きながら、五十フランの紙幣――施与――を差出した。それを彼女は拒絶した。
 彼女はある官省に職を求めようとした。が彼女の奔走は拙劣だったし連絡が欠けていた。一度奔走するにもある限りの勇気を費やした。そしてはがっかりしてもどって来、数日間身を動かすだけの力もなかった。ふたたび奔走しだすときにはもう時機遅れだった。また教会の人たちからも助力は得られなかった。彼らは彼女を助けることに利益を見出さなかったし、また、明らかに反僧侶《はんそうりょ》主義の主人をもっていた零落してる家族に、同情の念を起こさなかったのである。幾多の努力の後にジャンナン夫人が見出し得たものは、ある修道院におけるピアノ教師の地位――ひどく給料の少ないありがたくもない職業――であった。彼女はなおも少し稼《かせ》ぐために、晩にはある筆耕取次所の仕事をした。そこの人たちはきわめて手きびしかった。彼女の筆跡はまずかったし、またいくら注意しても、うっかり一語落としたり一行飛び越したりして――(それほど彼女は他の種々なことを考えていた)――ひどい小言をくった。そして夜中ごろまで書きつづけて、眼を真赤《まっか》にして身体を疲らしきった後、書き上げたものが受け付けられないこともあった。彼女は途方にくれてもどってきた。どうしていいかわからないで、幾日も溜息《ためいき》ばかりもらしていた。長い前から苦しんでいた心臓の病が、難儀のために重くなって、不吉な予感を彼女に覚えさせた。ときとするともう死にかかってるかのように、胸が苦しくなったり息がつまったりした。出かけるときにはいつも、もしや往来で倒れるようなことになったらと思って、名前と住所を書いてポケットに入れておいた。もしここで死んだらどうなるだろう? アントアネットは無理にも平気を装いながら、できるだけ母を支持していた。身体を大事にするように母へ勧め、自分を代わりに働かしてくれと頼んだ。しかしジャンナン夫人は、自分が今苦しんでる屈辱をせめて娘には経験させまいということを、自分の最後のわずかな誇りとしていた。
 彼女は刻苦精励しなおその上に費用を節約したが、それでもうまくゆかなかった。彼女の所得だけでは一家の生活をささえるに足りなかった。取って置いた数個の宝石をも売らなければならなかった。そしてもっとも不幸なことは、必要に迫ってるその金を、ジャンナン夫人は手にしたその日に盗まれてしまった。憐《あわ》れにも彼女はいつもうっかりしていて、外に出たついでにふと思いついて、その筋道に当たる勧工場《かんこうば》へはいってみた。翌日がちょうどアントアネットの誕生日に当たるので、何かちょっとした物を買ってやりたかった。彼女は失わないようにと金入れを手に握っていた。そしてある品物をよく見るときに、手の金入れをちょっと勘定台の上に何気なく置いた。ところがそれをまた手に取ろうとすると、金入れはもうなくなっていた。――それは最後の打撃だった。
 それから二、三日後、八月末の息苦しい晩――蒸し暑い濃い靄《もや》が都会の上に重くたなびいていた晩――ジャンナン夫人は、筆耕取次所に急ぎの仕事を渡してもどって来た。夕食の時間に遅れていたが、三スーの乗合馬車賃を倹約して歩いた。子供たちが心配してやすまいかと気づかってあまり急いだので、すっかり疲れきってしまった。五階の住居へ着いたときには、もう口をきくことも息をすることもできなかった。彼女がそういう状態で
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