返し、もうひき終えるにも終えられなくなってるのに、みずから気づいてまごついたが、しまいにぴったりひきやめて、正しくない和音を二度ひき、間違った和音をも一つつけ加えて、それで終わりとしてしまった。ポアイエ氏は言った。
「すてきだ!」
 そして彼はコーヒーを求めた。
 ポアイエ夫人は、自分の娘はピュノーについて稽古《けいこ》を受けてると言った。「ピュノーに稽古を受けてる」令嬢は、言った。
「たいへんお上手《じょうず》ね、あなたは。」
 そしてアントアネットがどこで学んだか尋ねた。
 会話は困難になってきた。客間の装飾品やポアイエの夫人令嬢らの服装など、興味ある話題は話しつくされてしまっていた。ジャンナン夫人は心の中でくり返した。
「今が話すときだ。話さなければならない……。」
 そして彼女はもじもじしていた。ついに元気を出して話そうと決心しかけると、ポアイエ夫人はちょうどそのおりに、残念だが私どもは九時半に出かけなければならないと、別に許しを求めようともしない調子で言い出した。遅らすことのできない招待を受けてるのだった……。ジャンナンの人たちは気を悪くして、すぐに立ち上がって帰ろうとした。ポアイエの人たちは引き留めるような様子をした。
 しかしそれから十四、五分たって、だれかが訪れてきた。ポアイエ家の知人で、下の階に住んでる人たちであることを、下男が知らしてきた。ポアイエと夫人とは目配せをし、召使らに向かってあわただしくささやいた。ポアイエは何か訳のわからない口実を言いたてながら、ジャンナンの人たちを隣の室に移らせた。(自分の名折れとなる親戚があることを、ことにそれが押しかけて来てることを、彼は友人らに隠したがっていたのである。)ジャンナンの人たちは、火のない室に置きざりにされた。子供たちはその恥辱に憤慨した。アントアネットは眼に涙を浮かべて、帰りたがった。母親は最初それに反対した。けれどあまり長く待たされるので、ついに心をきめた。彼らは帰りかけた。それを下男から知らせられたポアイエは、控え室まで彼らを追っかけてきて、ありふれた文句で弁解をした。彼は引き留めたがってるふうを装っていたが、早く帰ってもらいたがってることは明らかだった。彼は手伝って外套《がいとう》を着せてやり、微笑や握手や小声の愛嬌《あいきょう》などを振りまきながら、入口の方へ彼らを導き、そして外へ追い出した。――旅館へ帰ると、子供たちは口惜《くや》し涙にくれた。アントアネットはじだんだふみながら、もうあんな人たちの家へ足を踏み入れるものかと断言した。
 ジャンナン夫人は、植物園の近くに、五階の一部屋を借りた。居室はみな、薄暗い中庭の汚ない壁に向かっていた。茶の間と客間とは――(ジャンナン夫人はぜひとも客間をほしがっていたのである)――人通りの多い街路に面していた。毎日、蒸気馬車が通り過ぎ、また葬式馬車が列をなして、イヴリーの墓地へはいり込んでいった。虱《しらみ》だらけのイタリー人らが、汚ない子供を連れて、ぼんやり腰掛にすわったり、荒々しく言い争ったりしていた。あまり騒々しいので、窓を開《あ》けておくことができなかった。そして夕方、家に帰ってくるときには、忙しげな臭い人波を押し分け、舗石も泥だらけの込み合った街路を横切り、隣家の一階にある厭《いや》なビール飲み場の前を通らなければならなかった。そのビール飲み場の入口には、黄色い髪の毛をし、脂《あぶら》や白粉《おしろい》をぬりたてた、大きなでっぷりした女どもが、卑しい眼つきで通行人をうかがっていた。
 ジャンナン一家のわずかな金はまたたくまになくなっていった。毎晩財布の中がますますむなしくなってるのを見ると、彼らは胸迫る思いがした。つつましい生活をしようとしたができなかった。それは一つの学問であって、子供のときから実行していなければ、学ぶのに幾年もの困難を経なければならない。生来経済家でない者は、経済家たらんとして時間をつぶしてしまう。金のいる新しい場合に臨むと、それに打ち負けてしまう。倹約はいつもこのつぎこのつぎへと延ばされる。そして偶然、わずかなものを儲《もう》けるかあるいは儲けたと信ずるときには、それを口実にすぐいろんなことに金を費やして、その全額は儲けの十倍にもなってしまいがちである。
 数週間たつと、ジャンナン一家の資力はつきはててしまった。ジャンナン夫人は、残りの自尊心をも捨てなければならなかった。彼女は子供たちに知らせないで、ポアイエに金の無心をしに行った。彼女はくふうして、彼一人にその事務所で会った。生活できるだけの地位を見出すまで、金を少し拝借したいと願った。ポアイエは気が弱くかなり人情深かったので、返事を延ばそうとしたあとですぐに心がくじけた。一時の感動を制しきれずに二百フラン貸し与えた。がもとよりそ
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