ほうへ気をとられた。ただ一つのその考えが、気を紛らそうとしてるときでも始終つきまとってきた。音楽会で、楽曲を聴いてる最中に突然それが湧《わ》き上がってきた。夜中に眼を覚ますとき、それが深淵《しんえん》のように口を開いてきた。ことにオリヴィエのほうには、姉を慰め姉がその青春を犠牲にしてくれたことに報いたいという、熱烈な願望のほかにも一つ、兵役にたいする恐怖があった。試験に失敗したら兵役を免れることができなかった。――(高等の学校へはいれば兵役を免れる時代だった。)――当不当はともかく兵営生活のうちに見てとられる、大勢の身心の混和にたいして、一種の知的退歩にたいして、彼は押えがたい嫌悪《けんお》の情を感じた。彼のうちにある貴族的な童貞的な情操は、兵役の義務にたいして反発した。それと死といずれがましだかわからないほどだった。かかる感情は、目下一つの信条となってる社会道徳の名のもとに、嘲笑《ちょうしょう》しもしくは非難することができるかもしれないけれど、それを否定する者は盲者と言うべきである。現時の放漫|蕪雑《ぶざつ》な共産主義によって精神的孤立の犯される苦しみ、それ以上の深い苦しみは世に存しない。
 試験が始まった。オリヴィエはも少しで試験を受けられないところだった。彼は気分がよくなかった。そしてまた、ほんとうに病気になったほうがいいと思うほど、及第してもしなくてもとにかく経なければならない心痛を、非常に恐れていた。がこんどは、筆記試験にはかなり成功した。しかし通過か否かの成り行きを待つのはつらいことだった。革命の国でありながら世にもっとも旧慣|墨守《ぼくしゅ》の国たるこの国の、ごく古くからの習慣に従って、試験は七月に、一年じゅうのもっとも酷暑のころに、行なわれたのだった。あたかも、各試験官でさえその十分の一も知らないような恐るべき科目の準備に、すでにまいってしまってる憐《あわ》れな受験者らを、さらに圧倒しつくそうと目論《もくろ》まれてるかのようだった。述作の受験は、人出の多い七月十四日の祭日の翌日に当たっていた。自身愉快でなくて静粛を必要とする人々にとっては、非常につらい陽気な祭りだった。戸外の広場には、午《ひる》ごろから夜中まで、屋台店が立ち並び、射的の音が響き、蒸気木馬が唸《うな》り声をたて、オルガンが鳴り響いていた。その馬鹿騒ぎが一週間もつづいた。それから、共和国大統領は人望をつなぐために、わいわい連中になお半週間の祭りを与えた。彼はそれについてなんの迷惑もこうむらなかった。それらの騒ぎが聞こえなかったから。しかしオリヴィエとアントアネットとは、喧騒に頭を痛められ、害せられ、窓を閉《し》め切って息苦しい室の中にこもり、自分で自分の耳をふさぎ、朝から晩まで繰り返される馬鹿げたきいきい騒ぎが、小刀で刺すように頭の中へしきりとはいってくるのを、いたずらにのがれようとつとめながら、苦しさにたまらなくなっていた。
 おおよその採用がきまると間もなく、口頭試験が始まった。オリヴィエはアントアネットへ列席してくれるなと頼んだ。彼女は門口に待っていた――彼よりもなお震えながら。彼はもとより、満足な試験の受け方をしたとは彼女へ言わなかった。彼が言ったことも言わないこともともに彼女には心配の種となった。
 最後の発表の日が来た。ソルボンヌ大学の校庭に、採用者の名前が掲示された。アントアネットはオリヴィエ一人で行かせなかった。二人は家から出かけながら、口には出さなかったが、帰ってくるときにはもうわかってる[#「わかってる」に傍点]のだと考えたり、少なくともまだ希望が残ってるこの心配な今のほうを、そのときになったら残り惜しく思うかもしれないなどと考えた。ソルボンヌ大学が見えだすと、足もよく立たない気がした。あれほどしっかりしていたアントアネットも、弟へ言った。
「ねえ、そんなに早く歩かないでちょうだい……。」
 オリヴィエは姉のほうをながめた。彼女は微笑《ほほえ》もうとつとめていた。彼は言った。
「この腰掛にちょっとかけましょうか。」
 彼は向こうまで行きたくない気がしていた。しかしやがて、彼女は彼の手を握りしめて言った。
「なんでもないことよ。行きましょう。」
 人名表はすぐには見当たらなかった。それから幾つもの人名表を読んだが、ジャンナンという名はなかった。最後にその名前を見たとき、すぐには腑《ふ》に落ちなかった。何度も読み返したがまだ信じられなかった。それから、それはほんとうであること、ジャンナンというのは彼であること、ジャンナンが採用されたこと、それが確かになったとき、二人は一言も口に出なかった。逃げるようにして帰っていった。彼女は彼の腕をとらえ手首を取り、彼は彼女へよりかかっていた。走らんばかりに歩いて、周囲のもの何一つ眼に止まらなかった
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