とを忘れる癖がついていたから、クリストフが苦しんできたに違いないと考えては、自分自身の苦しみから多少気をそらすことができた。けれど彼に再会したり手紙を書いたりすることは、少しも求めなかった。貞節と自負との感情から、そういうことをなし得なかった。彼女は自分にかけた損害を彼が知らないでいるだろうと思った。そして温良な心から、彼がいつまでもそれを知らずにいるようにと願った。
 彼女は出発した。町から一時間ばかりのところで、彼女を運び去ってる汽車は、隣の町で一日を過ごしたクリストフを連れ帰ってる汽車と、偶然にもすれちがった。
 向き合って数分間止まったその車室から、二人はひっそりした夜の中にたがいに顔を見合った。そして言葉を交えなかった。通俗な言葉以外に何を彼らは言い得たであろうか? 彼らのうちに生まれ出で、内心の幻覚の確実さの上にのみかかっている、相互の憐憫《れんびん》と神秘な同情とのえも言えぬ感情は、通俗な言葉では汚されるに違いなかった。たがいによく知らないままで顔を見合ったその最後の瞬間に、彼らは二人とも、いっしょに暮らしてる人たちから見らるるのとは、まったく違った見方で、たがいに相手から見られた。すべては過ぎ去る、言葉や接吻《せっぷん》や恋しい肉体の抱擁などの種々の思い出は。しかしながら、数多《あまた》の一時の形象の間で、一度触れ合ってたがいに認める魂と魂との接触は、けっして消え失《う》せるものではない。アントアネットはそういう接触を、長く心の奥に秘めた――その心は、悲しみに包まれてはいたけれど、オルフェウス[#「オルフェウス」に傍点]の仙境《せんきょう》の霊を浸してる光に似たおぼろな光が、悲しみのまん中に微笑《ほほえ》んでいた。

 彼女はふたたびオリヴィエに会った。ちょうどよいときに帰って来たのだった。オリヴィエは病気になっていた。いらいらしたむら気な青年である彼は、病気にならない前から病気を恐れおののいていたが、今やほんとうに病気にかかると、姉に心配させまいとしてそれを知らせなかった。しかし心のうちでは姉を呼びつづけ、姉の帰国を奇跡をでも願うように待ち望んでいた。
 その奇跡が実際起こったときには、彼は熱にうかされうとうとしながら、学校の病室に臥《ふせ》っていた。姉の姿を見ても声をたてなかった。姉がはいって来るような幻を幾度見たことだったろう!……彼は寝床の上に身を起こし、口をうち開いて、こんども幻覚ではないかと気づかっていた。そして彼女が寝台の上に彼のそばへ腰をおろし、彼を両腕に抱きしめ、彼は彼女の胸に寄りすがり、唇《くちびる》の下に彼女のやさしい頬《ほお》を感じ、手の中に彼女の夜旅に冷えた手を感じ、最後にそれはまさしくなつかしい姉であることを確かめ得たとき、彼は泣き出した。泣くよりほかにしかたがなかった。今でもなおやはり、子供のおりの「泣きむし」のままだった。姉がまた逃げ出しはしないかと恐れて、しっかと胸に抱きしめた。彼らは二人ともいかに変わったことだろう! いかに悲しい顔つきをしてることだろう!……それはともあれ、ふたたびいっしょになったのだ! 病室も学校も薄暗い日も、すべてふたたび光り輝いてきた。二人たがいに抱き合って、もう離れようとしなかった。彼女が何にも言わない先に、彼は彼女にもう出発しないと誓わした。しかし誓わせるには及ばないことだった。彼女はもう出発する気はなかった。彼らはたがいに離れているとあまりに不幸だった。母親の考えは道理だった。何事も別離よりはましである。困窮も、死も、ただいっしょにいさえすれば……。
 彼らは住居を借りることを急いだ。きたなくはあったが以前の住居をまた借りたかった。しかしそれはもうふさがっていた。そして新たに借りた住居は、やはり中庭に面していた。そして壁の上から、小さなアカシアの木の梢《こずえ》が見えていた。自分らと同じく都会の舗石の中にとらわれてる野の友にたいする心地で、彼らはすぐにその木へ愛着の念をいだいた。オリヴィエは間もなく健康を、もしくは健康と言われてきたところのもの――(というのは、彼において健康とされていたものも、もっと丈夫な人においては病気だったかもしれない)――それを回復した。アントアネットはドイツのつらい生活のために、多少の金を手に入れていた。それにドイツのある書物の翻訳を出版屋に引き取ってもらって、なお幾何《いくばく》かの金が手にはいることになった。で物質上の心配はしばし除かれていた。そして学年の末にオリヴィエが入学できさえしたら、万事都合よくいくはずだった。――がもし入学できなかったら?
 彼らが共同生活の楽しみにふたたび馴《な》れだすや否や、試験のことがしきりに気にかかってきた。彼らはそれをたがいに避けて話さなかった。しかしどんなにつとめても、やはりその
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