女はひそかに倹約しながら、ピアノを一つ借りるだけの金をためて、オリヴィエをびっくりさした。そのピアノは一定の賃貸借の方法で、幾か月かたつとまったく彼らの所有になるはずだった。負担の上にさらにその重い負担を、彼女はあえて担《にな》ったのだった。期限ごとの支払いが夢の中まで気にかかった。必要な金を得るのに彼女は健康をそこなった。しかしそういう熱中は、彼ら二人に非常な幸福をもたらしてくれた。音楽はつらい生活の中における楽園だった。音楽は広大な場所を占めた。彼らは音楽に包まれてその他の世界を忘れた。それには危険が伴わないでもなかった。音楽は近代の大なる害毒物の一つである。暖房のようなまたは頼りない秋のようなその暖かい倦怠《けんたい》は、人の官能をいらだたせ意志を死滅させる。しかしそれは、アントアネットのように喜びのない過度の働きを強《し》いられてる魂にとっては、一つの休息となるのであった。日曜日の音楽会は、たえざる労働の一週間中に輝く唯一の光明だった。この前の音楽会の思い出やつぎの音楽会に行く希望、パリーを忘れ時を忘れて過ごすその二、三時間、それだけで彼らは生きていた。雨の中や雪の中に、あるいは風と寒さとの中に、たがいに身を寄せ合って、もう座席がなくなりはすまいかと恐れながら、外で長く待った後、劇場にはいり込んで狭い薄暗い席につき、群集の中に没してしまった。息をさえぎられ四方から押しつけられて、ときとすると暑さと窮屈さとに気分が悪くなりかかることもあった。――が二人は楽しかった。自分の幸福と相手の幸福とに楽しかった。ベートーヴェンやワグナーなどの偉大な魂から流れ出る、善良と光明と力との波が心の中に注ぎ込むのを感じて楽しかった。愛する同胞《はらから》の顔――あまりに年若くてなめた労苦や心労のために蒼《あお》ざめてるその顔――が輝き出すのを見て楽しかった。アントアネットはぐったりしていて、母親から両腕で胸に抱きしめられてるような心地がしていた。そのやさしい温《あたた》かい巣の中にうずくまっていた。そしてひそかに泣いていた。オリヴィエは彼女の手を握りしめていた。その恐ろしい広間の暗がりの中で、彼らに注意を向けてる者は一人もなかった。が、その暗がりの中で、音楽の母性的な翼の下に逃げ込んでる傷ついた魂は、彼ら二人きりではなかった。
 アントアネットはまた信仰をもっていて、いつもそれか
前へ 次へ
全99ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング