ほど彼女は他の種々なことを考えていた)――ひどい小言をくった。そして夜中ごろまで書きつづけて、眼を真赤《まっか》にして身体を疲らしきった後、書き上げたものが受け付けられないこともあった。彼女は途方にくれてもどってきた。どうしていいかわからないで、幾日も溜息《ためいき》ばかりもらしていた。長い前から苦しんでいた心臓の病が、難儀のために重くなって、不吉な予感を彼女に覚えさせた。ときとするともう死にかかってるかのように、胸が苦しくなったり息がつまったりした。出かけるときにはいつも、もしや往来で倒れるようなことになったらと思って、名前と住所を書いてポケットに入れておいた。もしここで死んだらどうなるだろう? アントアネットは無理にも平気を装いながら、できるだけ母を支持していた。身体を大事にするように母へ勧め、自分を代わりに働かしてくれと頼んだ。しかしジャンナン夫人は、自分が今苦しんでる屈辱をせめて娘には経験させまいということを、自分の最後のわずかな誇りとしていた。
彼女は刻苦精励しなおその上に費用を節約したが、それでもうまくゆかなかった。彼女の所得だけでは一家の生活をささえるに足りなかった。取って置いた数個の宝石をも売らなければならなかった。そしてもっとも不幸なことは、必要に迫ってるその金を、ジャンナン夫人は手にしたその日に盗まれてしまった。憐《あわ》れにも彼女はいつもうっかりしていて、外に出たついでにふと思いついて、その筋道に当たる勧工場《かんこうば》へはいってみた。翌日がちょうどアントアネットの誕生日に当たるので、何かちょっとした物を買ってやりたかった。彼女は失わないようにと金入れを手に握っていた。そしてある品物をよく見るときに、手の金入れをちょっと勘定台の上に何気なく置いた。ところがそれをまた手に取ろうとすると、金入れはもうなくなっていた。――それは最後の打撃だった。
それから二、三日後、八月末の息苦しい晩――蒸し暑い濃い靄《もや》が都会の上に重くたなびいていた晩――ジャンナン夫人は、筆耕取次所に急ぎの仕事を渡してもどって来た。夕食の時間に遅れていたが、三スーの乗合馬車賃を倹約して歩いた。子供たちが心配してやすまいかと気づかってあまり急いだので、すっかり疲れきってしまった。五階の住居へ着いたときには、もう口をきくことも息をすることもできなかった。彼女がそういう状態で
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