「さあ!」
彼は起き上がった。
彼らは盗人ででもあるかのようにそっと家を出た。各自に包みを手に下げていた。老婢は先に立って、かばんを積んだ手車をひいていた。彼らは所有物をほとんどすべて残しておいて、いっしょに持ってゆく物とては、身につけたものと少しの着物とだけと言ってもよいほどだった。わずかな記念品は、あとから徐行列車で送られるはずだった。幾冊かの書物、若干の肖像、それから自分らの生命と同じ鼓動を打ってるように彼らには思われる、古い掛時計など……。寒い空気は身に沁《し》むほどだった。町にはまだだれも起きていなかった。どの雨戸も閉《し》まっていて、街路はひっそりしていた。彼らは黙っていた。老婢《ろうひ》だけが口をきいていた。ジャンナン夫人は、過去のすべての思い出であるあたりの風物を、最後に深く心へ刻み込もうとしていた。
停車場へ着くと、ジャンナン夫人は自尊心から二等の切符を買った。三等に乗るつもりだったけれど、こちらの顔を知ってる二、三の駅員の前で、その恥辱を忍ぶだけの勇気がなかった。彼女はあいた車室にあわただしく乗り込み、子供たちといっしょに閉じこもった。そして皆は窓掛けの後ろに隠れて、知人の顔が見当たりはすまいかとびくびくしていた。しかしだれもやって来る者はなかった。彼らが出発する時間には、町はようやく眼を覚《さ》ましかけてるばかりだった。汽車の中はがらんとしていた。三、四人の百姓が乗ってるきりで、その他には数頭の牛が、貨物室の柵《さく》の上から頭をつき出して、憂鬱《ゆううつ》な鳴き声をたてていた。長く待たせたあとに、機関車が長い汽笛を鳴らして、汽車は霧の中を動き出した。三人の移住者は窓掛けを払い、顔を窓ガラスにくっつけて、最後にも一度ながめた、靄《もや》に隔てられてぼんやり見えてるゴチック式の塔のある小さな町を、茅屋《ぼうおく》の立ち並んでる丘を、霜氷に白くなって湯気の立ってる牧場を。それはもはや、あるかなきかの遠い夢|景色《げしき》だった。線路が曲がって、ある切り通しの中にはいり込み、その景色が見えなくなってしまうと、彼らはもう人に見られる恐れもないので気をゆるめた。ジャンナン夫人は口にハンケチをあててすすり泣いた。オリヴィエは母に身を投げかけ、その膝《ひざ》につっ伏して、その手に唇《くちびる》をつけ涙をそそいだ。アントアネットは車室の向こう隅《すみ》
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