た)――それが頭につきまとい、他のすべてのことにたいして盲目となり無関心となっていた。――アントアネットは弟の心中に何が起こってるかを少しも知らなかった。ただ彼が自分から離れてゆくことばかりを見てとっていた。しかし彼が離れていったのも、それはまったく彼のせいばかりではなかった。時には彼も、家にやって来ながら、彼女に会い彼女と話すのが非常にうれしかった。ところが家にはいると、彼の心はただちに冷たくなった。彼女が彼にすがりついて来、彼の言葉を吸い込み、やたらに世話をやく、その落ち着かない愛情と熱い心とに出会うと――その過度のやさしさといらいらした注意とに出会うと、すぐに彼は心を打ち明けたい願いを失ってしまうのだった。アントアネットが普通の状態でないことを、彼は考うべきであったろう。思いやりのある慎み深い平素の態度とは、まったく異なっていたのである。しかし彼はただそうだとかそうでないとかいうごく冷淡な答えをした。彼女が彼をしゃべらせようとすればするほど、彼はますます黙り込んでいった。あるいは乱暴な返辞をして彼女の気を害した。すると彼女もがっかりして口をつぐんだ。その楽しい一日はただ無駄に過ぎ去っていった。――彼は家の敷居をまたいで学校にもどりかけるや否や、自分の仕打ちに堪えがたい後悔を感じた。姉を苦しめたことを夜中に考えては、みずから自分を責めたてた。学校に帰ってすぐに、情に駆られた手紙を姉へ書いたこともあった。――しかし翌朝それを読み返しては引き裂いてしまった。そしてアントアネットは、そんなことは少しも知らなかった。もう弟から愛されていないのだと思っていた。
彼女はなお――最後の喜びと言えないまでも――心が元気づいてくる若々しい愛情の最後の動きを、愛や幸福の希望などにたいする力の捨鉢《すてばち》な眼覚《めざ》めを、経験したのだった。それはもとより根のないものだったし、彼女の穏和な性質に矛盾することだった。それが実際に起こったのも実は、彼女の心が乱れていたせいであり、疾病の前駆たる忘我と興奮との状態のせいであった。
彼女は弟とともに、シャートレー座の音楽会に臨んでいた。弟がある小雑誌の音楽批評を担任することになったので、以前よりも多少よい席に、しかしはるかに相容《あいい》れない聴衆の間に、二人はすわっていた。舞台のそばの管弦楽席であった。クリストフ・クラフトが演奏す
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