はその手をやさしくなでてやった。
「さあ、」と彼女は微笑《ほほえ》みながら言った、「しっかりなさいよ。」
 彼も微笑みを浮かべて、また食べ始めた。食事はそういうふうにして終わってゆき、彼らは口をきこうとつとめもしなかった。彼らは沈黙に飢えていた。……しまいに、ようやく休らった心地がし、各相手のつつましい愛情に包まれて、その日のよごれた印象が一身から消え去った心地がするとき、初めて彼らの舌は少しほどけてくるのだった。
 オリヴィエはピアノについた。アントアネットはいつも自分でひかないで、彼にばかりひかせておいた。なぜなら、ピアノをひくのが彼の唯一の慰みだった。そして彼は全力を尽くしてひいた。彼は音楽にたいしてりっぱな天分をそなえていた。活動するよりも愛するのに適した彼の女性的な天性は、自分が演奏する音楽家らの思想にやさしく結びつき、それといっしょに融《と》け合い、そのもっとも微細な色合いをも熱心な忠実さで演奏し出した――がそれも、彼の弱い腕と息との許すかぎりにおいてであって、トリスタン[#「トリスタン」に傍点]やベートーヴェンの後期の奏鳴曲《ソナタ》などをひく非常な努力には、腕は折れそうになり息は絶えだえになるのだった。それで彼は好んで、モーツァルトやグルックのうちに逃げ込んだ。そしてそれらはまた、姉の好きな音楽ででもあった。
 ときとすると、彼女も歌うことがあった。しかしそれはごく単純な歌で、古い旋律《メロディー》のものだった。彼女は重く弱い中音の含み声をもっていた。ごく内気だったので、だれの前でも歌えなかった。オリヴィエの前でさえようやくのことだった。喉《のど》がつまりそうになった。彼女がことに好んでいたものに、スコットランドの言葉でベートーヴェンの曲になった、忠実なるジョニー[#「忠実なるジョニー」に傍点]というのがあった。ごく静かで……底には情愛がこもっていた……。ちょうど彼女の性質に似ていた。オリヴィエは彼女がそれを歌うのを聴くと、いつも眼に涙を浮かべた。
 しかし彼女は弟の演奏を聴く方が好きだった。早く食事の後片付けを終わろうと急いでいた。そしてオリヴィエの演奏をよく聴くために、台所の扉《とびら》を開《あ》け放しておいた。彼女は非常に注意していたけれども、彼は我慢しかねて、皿を片付ける音がすると不平を言った。すると彼女は扉を閉《し》めた。後片付けを終わると
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