る現場を押えて、リュシアン・レヴィー・クールと自分とどちらかを選べと、手詰めの談判をした。彼女はその問題を避けようと試みた。そしてしまいには、好きな者はだれでも友だちにしておく権利があると主張した。彼女の言うところはまったく正当だった。クリストフは自分の方が滑稽《こっけい》だと気づいた。しかし自分がかく厳格な態度を取るのは利己心からではないということも、またよく知っていた。彼はコレットにたいして誠実な愛情をいだいていたのである。たとい彼女の意志に逆らおうとも彼女を救いたかった。それで彼はへまに言い張った。彼女は返辞を拒んだ。彼は言った。
「コレットさん、では私たちがもう友だちでなくなることを望むんですか。」
 彼女は言った。
「いいえ、ちっとも。あなたが友だちでなくなってしまわれると、私はたいへん悲しいんですもの。」
「しかしあなたは私どもの友情に、少しの犠牲をも払いたがらないじゃありませんか。」
「犠牲ですって! まあ馬鹿なことをおっしゃるのね。」と彼女は言った。「いつでも何かのために何かを犠牲にしなければならないという訳があるでしょうか? それはキリスト教的な馬鹿げた考えですわ。つまりあなたは、知らず知らず古臭いお坊さんになっていらっしゃるのね。」
「そうかもしれません。」と彼は言った。「私にとっては、これかあれかです。善と悪との間に、私は空間を認めません、たとい髪の毛一筋ほども。」
「ええ、知っています。」と彼女は言った。「だから私はあなたが好きです。ほんとに、たいへん好きですわ。けれど……。」
「けれど、も一人の方も同様に好きだ、というんでしょう。」
 彼女は笑った。そして、いちばんかわいい眼つきをしいちばんやさしい声をして言った。
「お友だちでいてくださいね!」
 彼はまた負けかかった。しかしそこに、リュシアン・レヴィー・クールがはいって来た。そして同じかわいい眼つきと同じやさしい声とが、彼を迎えるのに使われた。クリストフは口をつぐんで、コレットが芝居をうってるのをながめた。それから、交誼《こうぎ》を絶とうと決心して立ち去った。心が悲しかった。しかし、いつも執着して罠《わな》にかかってばかりいるのは、いかにも愚かなことだった。
 彼は家に帰って、機械的に書物を片付けながら、退屈なまま聖書を開いて読んだ。

[#ここから2字下げ]
 ……主《しゅ》は宣《のたま》えり、シオンの娘らは、首を硬《かた》くし、眼を動かし、気取りたる小足にて歩み、足の輪を鳴らせばなりと。
 主はシオンの娘らの頭の頂を禿《はげ》となし、その裸の地を見出したもうべし……。
[#ここで字下げ終わり]

 彼はコレットの素振りを考えて放笑《ふきだ》した。そして機嫌《きげん》よく床についた。それから、自分にとっては聖書も滑稽《こっけい》な読み物となったところをみると、自分もまたパリーの腐敗に冒されたのに違いないと考えた。けれども彼はやはり寝床の中で、そのおかしな大審判者の判決文をくり返し思い出していた。そしてあの年若な女友だちの頭にはそれがどう響くか、想像してみようとした。彼は子どものように笑いながら眠った。自分の新しい苦しみのことはもはや考えていなかった。可もなく不可もないことだ……。彼はそれに馴《な》れていた。

 彼はなおコレットにピアノの稽古《けいこ》を授けることはやめなかった。しかしそれから後は、彼女から親しい対談をされるような機会を避けた。彼女がいかに悲しい様子をしたり、怒ったふりをしたり、そのつまらない術策を弄《ろう》したりしても、彼はがんばっていた。二人は不機嫌《ふきげん》な顔をし合った。ついには彼女の方から、口実を設けて稽古の回数を減らした。彼もまた口実を設けてストゥヴァン家の夜会へ招待されたのを断わった。
 パリーの社交界はもうたくさんだった。その空虚、無為、精神的無力、神経衰弱、理由も目的もなくただ空費される妄評《もうひょう》、などに彼はもう堪えることができなかった。芸術のための芸術の、また快楽のための快楽の、この沈滞せる雰囲気《ふんいき》の中に、どうして一民衆が生活し得るかを、彼は怪しんだ。それでもこの民衆は生活していた。かつては偉大だった。まだ世界においてかなりりっぱな顔つきをしていた。遠くからながめる者には幻をかけさしていた。しかし、どこからその生存の理由をくみ取っているのか? 何物も信ぜず、快楽をしか信じていないのに……。
 クリストフはそこまで考えを進めていると、青年男女の騒々しい一群に、往来の中で出会った。彼らは一つの車をひいていた。車の中には一人の老牧師がすわって、左右の人々に祝福を与えていた。その少し先を見ると、フランス兵らが斧《おの》を振りあげて、教会堂の扉《とびら》をこわしており、それにたいしてりっぱな紳士らが、椅子《いす》をかざして対抗していた。クリストフはフランス人がなお何かを信じてることに気づいた――何をであるかはまだわからなかった。人の説明によれば、一世紀間の共同生活の後に国家は教会と分離したのであって、教会が快く別れ去ることを欲しなかったので、法と力とをそなえた強い国家は、教会を駆逐してるのであった。クリストフはそれを適宜なやり方だとは思わなかった。しかし彼は、パリーの芸術家らの無政府的享楽主義に弱らされていたので、いかにつまらない主旨にせよ、それに熱中せんとする人々に出会うと、ある喜びを感ぜざるを得なかった。
 彼はやがて、そういう人物がフランスにはたくさんいることを認めた。政治新聞はホメロスの英雄らのようにたがいに戦っていた。内乱を煽動《せんどう》する記事を毎日掲げていた。実を言えば、それもただ言葉の上のことだけで、実際の腕力|沙汰《ざた》になることはめったになかった。けれども、他人が書いてる道徳を実地に行なうような率直な者も、いないではなかった。すると、不思議な光景が見られるのであった。フランスから分離したつもりでいる地方、脱走した連隊、焼かれた県庁、憲兵隊の先頭に立って馬に乗ってる収税吏、自由思想家らが自由の名においてこわそうとしてる教会堂を保護せんため、釜《かま》に湯を煮たて手に鎌《かま》をもってる農夫、アルコール地方にたいして反抗した葡萄《ぶどう》酒地方へ話しかけるため、木の上に登っている民衆の贖主《あがないぬし》。ここかしこに無数の群集がいて、拳固《げんこ》を差し出し、怒鳴って真赤《まっか》になっていたが、しまいには本気でなぐり合うのだった。共和政府は民衆に媚《こ》びていた。そして次には、民衆を薙《な》ぎ払わせていた。民衆の方でもまた、民衆の赤子――将校や兵卒――の頭をたたき割っていた。かくてそれぞれ、自分の主旨と拳固《げんこ》とのりっぱなことを、他人に証明してみせていた。そういうありさまを遠くから新聞を通じてながめると、数世紀も逆転したがように思われるのだった。フランスは――この懐疑的なフランスは――熱狂的な民衆であるということを、クリストフは発見した。しかしいかなる意味において熱狂的だかは、知ることができなかった。宗教に味方してかあるいは反対してか? 理性に味方してかあるいは反対してか? 祖国に味方してかあるいは反対してか?――彼らはそれらすべての意味において熱狂的だった。彼らは熱狂的であるという快楽のために熱狂的になってるがようだった。

 ある晩彼は、ストゥヴァン家の客間で時々出会ったことのある、社会主義の一代議士と話を交えることになった。彼はすでにこの男と言葉をかわしたことはあったが、その肩書は少しも知らなかった。これまで二人は音楽のことを話したにすぎなかった。彼はこの社交界の男が過激な党派の一首領だときいて、たいへん驚かされた。
 このアシル・ルーサンは好男子であって、金褐色《きんかっしょく》の髯《ひげ》、喉《のど》にかかった言葉つき、つやつやした顔色、懇切な物腰、卑俗な素質を含んでるある種の高雅さ、時々|仄《ほの》見える朴訥《ぼくとつ》な身振り、すなわち、人前で爪《つめ》をみがくやり方、人に話しかける時にはいつも、相手の服をつかんだり手を握ったり腕をたたいたりする、ごく平民的な習慣、――それに、大食家で、大酒家で、道楽者で、笑い好きで、権力を得んとて突進する一平民に見るような貪欲《どんよく》をそなえていた。また円転滑脱で、環境と相手とに従って様子を変えるのが巧みで、もっともらしい様子でよくしゃべり、聞き上手《じょうず》で、人の言うことにすぐ同化した。そのうえ、よく物に同感し、怜悧《れいり》であって、生来の趣味と後天的趣味と虚栄心とから、何物にも興味をもった。そしてかなり正直だった、自分の利害に衝突しないくらいの程度において、また正直でないことが危険であるような場合に応じて。
 彼の細君はかなりきれいだった。背が高く、格好がよく、骨格が丈夫で、身体つきもすらりとしていて、きっちり合った華美な服装は、肉体の強健な円《まる》みをとくによく示していた。縮れた黒髪に縁取られた顔、大きな黒い厚ぼったい眼、とがり気味の頤《あご》、そして、実は太いけれど見たところかなりほっそりとした顔つきは、ただ瞬《またた》きがちな近視の眼とつぼめた口の動きで、少し損ぜられてるのみだった。ある小鳥のようなわざとらしい落ち着きのない態度と、愛嬌《あいきょう》を装《よそお》ってはいるが淑《しと》やかさと親愛さとに富んだ話し方をそなえていた。中流の富裕な商家の生まれで、自由な精神と徳操とを有し、宗教にでも執着するような調子で、世間的な無数の仕事に執着していた。芸術的な社会的な仕事をももちろん引き受けていた。一つの客間《サロン》を作ること、通俗大学にも芸術を普及させること、博愛的事業や児童心理学などに従事すること――それも大した熱心や深い興味をもってではなく――たえずある学科を暗誦《あんしょう》せんとし自分の知識を自負してる教育ある若い女に見るような、無邪気な衒学《げんがく》心、それからまた、生来の温良な性質、気取りたい性質、などが入り交った心持をもってであった。彼女はただ何かをしないではおれなかった。しかし自分のしてる事に興味をもつ必要はなかった。いつも指先に編み物をもてあそんでしきりなしに針を動かし、あたかも世界の安危はその用もない仕事にかかってるとでもいうようなふうをしてる婦人が、世にはよくあるものだが、ちょうどそういう熱中的な仕事ぶりに彼女のも似ていた。そしてまた彼女のうちには――「編み物をする女」と同じく――自分を手本として他の女に教えをたれる、正直な婦人の小さな虚栄心があった。
 代議士は彼女にたいして温《あたた》かい軽蔑《けいべつ》心をいだいていた。彼が彼女を妻に選んだのは、彼の快楽と安静とに好都合だった。彼女は美しかった。彼はその美を享楽して、それ以外は何にも彼女に求めなかった。彼女も彼にそれ以上を求めなかった。彼は彼女を愛し、しかも彼女を欺いていた。彼女は自分の分け前さえ得れば、そんなことには平気だった。おそらくある種の興味を見出してさえいたのだろう。彼女は冷静で肉感的であった。妾嬖《めかけ》の心ばえをそなえていた。
 彼らには四、五歳になるきれいな児《こ》が二人あった。そして彼女は、夫の政治や流行および芸術の最近の傾向などに気をつけるのと、同じかわいい冷やかな勉励さで、家庭の賢母として子どもの世話をしていた。そういう中にあって彼女は、進んだ理論や極度に頽廃《たいはい》的な芸術や世態の動揺や市民的感情などの、最も不思議な混和体を形造っていた。
 彼らはクリストフを自宅に招待した。ルーサン夫人はりっぱな音楽家で、みごとにピアノをひいた。微妙な確実な手をもっていた。小さな頭を振りたてて鍵《キー》を見つめ、鍵の上に両手を躍《おど》らしながら、牝鶏《めんどり》がくちばしで物を突っついてるような様子だった。音楽にかけて多くのフランス婦人よりも天分に富み教養が深くはあったが、もとよりその深い意味にはまったく無関心だった。音楽は彼女にとって、音と律動《リズム》と調子との連続であって、彼女はそれ
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