ほど賢い子供らであった。ある者らは、数十歩行くとまた大道にもどってきた。ある者らは、すぐに疲れてどこでも構わず立ち止まった。または、新しい小径《こみち》に達しかけてる者らもあった。しかしそういう者らも、なお進みつづけることをしないで、森の出はずれに腰をおろして、木陰にぐずついていた。彼らに最も欠けてるものは、意志であり力であった。天賦の才をことごとくそなえてはいた――がただ一つ不足してるものがあった。それは強健な生活力だった。さらに、その多くの努力も、雑然たる方法で費やされているらしく、中途で無駄《むだ》に終わってるらしかった。それらの芸術家らが自分の性質を明らかに自覚し、一定の目的へ向かって自分の力をたゆまず集中することは、めったになかった。それはフランスの無秩序から来る普通の結果だった。この無秩序は、才能と善良な意志との大なる源泉を、不確定と矛盾とによって空費さしてしまうのである。彼らの大音楽家は皆、ほとんど一人の例外もなく、たとえば近代の人を挙げずとも――ベルリオーズでもサン・サーンスでも、精力を欠き、信念を欠き、ことに内心の羅針盤《らしんばん》を欠いてるために、自家|撞着《どうちゃく》をきたし、自己を破壊するようなことばかりをし、自己を否認しているのであった。
クリストフは、当時のドイツ人に通有な厚かましい軽蔑《けいべつ》の態度で、こう考えていた。
「フランス人は、自分で利用できないような発明に、無駄な努力を重ねてばかりいる。彼らの革命を利用しに来る異人種の偉人が、グルックやナポレオンのごとき者が、彼らにはいつも必要である。」
そして彼は、フランス共和暦八年|霧月《ブリュメール》十八日のことを考えて、微笑をもらしたのであった。
けれどもある一群の者らは、そういう無秩序のまん中にあって、芸術家の精神のうちに、秩序と規律とを回復せんとつとめていた。彼らはまず手初めに、今から約千四百年前ゴート人やヴァンダル人の大侵入のころ栄えていた、ある僧侶団体の記憶を呼び起こしながら、ラテン語の名称を採用していた。それほど遠い昔にさかのぼるのを、クリストフは多少驚いた。おのれの時代を俯瞰《ふかん》するのは確かにいいことではある。しかしおそらくは、十四世紀もの高さを有する高塔は、現代の人間の運動を観測するよりもむしろ星の運動を観察する方がたやすいほどの、不便な観測所たるやもしれなかった。ところがクリストフは、聖グレゴアールの子孫らがめったにその塔上にいないのを見て、すぐに安心を覚えた。彼らがそれに上るのは、ただ鐘を鳴らさんがためばかりであった。その他の時には、皆下の会堂に集まっていた。クリストフはその祭式に数回臨んでみて、彼らが旧教的信仰をもってることに気づいたのは、しばらくたってからであった。しかし始めの間彼は、彼らが新教のある小派の典礼に属してることだと、思い込んでいた。聴衆は跪拝《きはい》していた。弟子《でし》らは敬虔《けいけん》で、偏狭で、攻撃を好んでいた。その上に立ってる首領は、ごく純潔で、ごく冷静で、わがままで、多少子供らしい人物だったが、宗教的で道徳的で芸術的であるその教義の完全無欠さを力説し、選まれたる少数の人民らに、音楽の福音書を抽象的な言葉で説明し、驕慢《きょうまん》と異端とを平然としてののしっていた。そして右の二つに、芸術の罪過と人類の悪徳とを帰していた。文芸復興、宗教改革、および彼が同じ袋に入れて論じてる現代のユダヤ主義、ことごとくを帰していた。音楽上のユダヤ人らは、辱《はずか》しめの衣裳を着せられた後にその肖《すがた》を焼かれていた。巨人ヘンデルも笞刑《ちけい》を受けていた。ただヨハン・セバスチアン・バッハのみは、「誤って新教徒になった者」と上帝から認められ、その慈悲によって特赦を受けていた。
サン・ジャック街の殿堂で布教が行なわれていた。魂と音楽とが救済されていた。天才の規則が組織的に教えられていた。勤勉な生徒らは、多くの苦心と絶対の確信とをもって、その方法を実地に適用していた。あたかも彼らはその敬虔な労苦によって、オーベル輩、アダム輩、および、かの偉大な罪人であり悪魔的な驢馬《ろば》であり、悪魔の権化《ごんげ》にして音楽上の悪魔[#「音楽上の悪魔」に傍点]なるベルリオーズ、そういう父祖の、軽薄さの罪を、償おうとでも思ってるかのようだった。そして讃むべき熱心と誠実なる信仰とをもって、すでに認められた大家にたいする崇拝を世に広めていた。約十年間のうちに偉大な事業が完成されていた。フランスの音楽はそれで一新されたのだ。音楽を学んだのは、ただに批評家ばかりではなく、音楽家自身もであった。今や作曲家も出て来たし、バッハの作品を知ってる名手まで出てきた。――ことに、フランス人の家居的な精神を打破するのに、大なる努力がつくされたのだ。彼らは自分の家にばかり蟄居《ちっきょ》している。外に出るのをおっくうがっている。それゆえ、彼らの音楽には空気が欠乏している。閉《し》め切った室と長|椅子《いす》との音楽であり、歩くことのない音楽である。野の中で作曲し、坂路をころげ降り、月光や雨の中を大股《おおまた》に歩き、その身振りと叫び声とで家畜の群れを恐れさせる、ベートーヴェンのごときとは、まったく正反対である。パリーの音楽家らには、「ボンの熊《くま》」みたいに、霊感《インスピレーション》の騒々しさによって隣人らの邪魔となる恐れは、少しもなかった。彼らは作曲する時、自分の楽想に弱音器をはめ、また外界の音響が伝わって来るのを、帷幕《とばり》によって防いでいたのだ。
ところでこのスコラ派は、空気を新しくしようと努めたのだった。そして過去にたいして窓を開いていた。しかしただ過去にたいしてばかりだった。言わば中庭の方のを開いたのであって、往来の方のを開いたのではなかった。それでは大した役にはたたなかった。彼らは窓を開いたかと思うとすぐに、風邪《かぜ》にかかりはしないかと恐れてる老婆《ろうば》のように、その鎧戸《よろいど》を閉めてしまった。その隙間《すきま》から、中世紀のもの、バッハ、パレストリナ、俗謡などが、多少吹き込んできた。しかしそれがなんになろう? 室の中はやはり閉め切った感じばかりだった。要するに、彼らにはそれの方がよかったのである。彼らは近代の空気の大流通をきらっていたのである。そして、他の者らよりも多くのことを知っていたとはいえ、またより多くのことを否定していた。この連中の中にはいると、音楽は教理的性質を帯びるのであった。それは一つの休養ではなかった。音楽会は、歴史の授業か教化の実例かのようであった。進んだ思想も官学風になされていた。急湍《きゅうたん》のごときバッハも、この聖教徒らの中に迎えられると賢明になっていた。彼の音楽は、このスコラ派の頭脳にはいると、荒々しい肉感的な聖書がイギリス人の頭脳にはいった時と同じような、一種の変形を受けるのであった。彼が主唱する教義は、ごく貴族的な折衷主義であって、六世紀から二十世紀にわたる三、四の音楽的大時代の各特質を、一つに合同しようと努めることであった。もしそれが実現できた暁には、インドのある太守が方々への旅行からもどってきて、地球の四辺から集めてきた貴重な材料で作り上げた、あの混成建築物にも等しいほどのものが、音楽上にも得られるわけだった。しかしフランス人特有の良識は、そういう博学な野蛮さの病弊から彼らを救い出した。彼らはその理論を実際に適用することをよく差し控えた。医者にたいするモリエールの態度と同じ態度を、彼らはその理論にたいして取っていた。療法の指図《さしず》は受けていたが、それに従っていなかった。最もひどいのは、自分勝手の道を進んでいた。残余の者らは、実地においては、対位法のごく困難な込み入った練習をするだけで、みずから満足していた。そういう練習を彼らは、奏鳴曲《ソナタ》だの四重奏曲だの交響曲《シンフォニー》だのと名づけていた……。「奏鳴曲《ソナタ》よ、何を望むのか。」――しかし奏鳴曲はただ奏鳴曲たること以外には、まったく何も望んではいなかった。彼らの奏鳴曲の楽想は、抽象的で特徴がなく、苦心のみあって喜びのないものだった。それはまったく公証人的な芸術だった。クリストフは、フランス人らがブラームスを愛しないことを初め感謝していたが、もう今では、フランスには小ブラームスがたくさんいると考えていた。勤勉な誠実なそれらのりっぱな労働者らは皆、多くの美徳をもっていた。クリストフはたいへん教えられるところがあったが、またひどく退屈して、その仲間からのがれ出た。のがれ出てよかった、実によかった……。
戸外はなんといい気持だったろう!
それでも、パリーの音楽家中には、あらゆる流派を脱して独立してる者が、幾人かあった。クリストフが興味を覚えたのは、そういう人たちばかりだった。彼らのみが、一芸術の生活力の程度を知らせるのである。流派や学会などは、皮相な流行やこしらえられた理論だけをしか示さない。しかし自分だけ離れて立っている独立者らは、その時代と民族との真の思想を見出すの機会を、より多く有している。それゆえにまた、外国人にとっては、他の者らよりも彼らの方がいっそう理解しがたいのは、事実である。
クリストフがある名高い作を初めて聞いた時も、実際そのとおりであった。フランス人らはその作を法外にほめたてていた。最近十世紀間にその例を見ない音楽上の最大革命だと、公言してる者もあった。――(十世紀といっても、フランス人には世紀ということが大した意味をなしはしない。彼らは自国の世紀以外のことはあまり考えない。)
テオフィル・グージャールとシルヴァン・コーンとは、ベレアスとメリザンド[#「ベレアスとメリザンド」に傍点]を聞かせるために、クリストフをオペラ・コミック座へ連れていった。二人は彼にその作を示すのを非常な光栄としていた。あたかも自分で作ったかのようだった。それを聞いたら彼が心機一転するかもしれない、などと吹聴《ふいちょう》していた。劇が始まっても二人はなお吹聴をやめなかった。クリストフは二人を黙らして、耳を澄《す》まして聴《き》いた。第一幕が済むと、彼はシルヴァン・コーンの方へ身を乗り出した。コーンは眼を輝かしながら彼に尋ねたのであった。
「おい、気むずかしや、どうだい?」
彼は言った。
「ずっとこんな調子なのか。」
「そうだ。」
「じゃあ、からっぽだね。」
コーンは反対して、彼を俗物だとした。
「まったくからっぽだ。」とクリストフは言いつづけた。「少しも音楽がない。発展がない。連絡がない。支離滅裂だ。ごく繊細な和声《ハーモニー》はある。ごく巧みなごくよい趣味の管弦楽から来る、小さな効果はある。しかしそんなのは、くだらないものだ、まったくくだらないものだ……。」
彼はまた聴き始めた。すると次第に、燈火が輝いてきた。薄ら明かりのうちに何かが見え始めた。そうだ、音楽の波の下に劇を沈めようとするワグナー派の理想に反対して、簡潔を旨とする意図がその中に含まってることを、彼はよく理解した。しかしながら、そういう犠牲的な意図は、もっていないものを犠牲にするというところから来るのではないかと、彼はやや皮肉に疑ってみた。苦心することの恐れ、疲れを最も少なくして効果を得んとする試み、ワグナー派の力強い構成に必要な激しい努力を無精《ぶしょう》のためにあきらめたやり方、などを彼は作の中に感じた。平坦《へいたん》で簡単で穏やかで微温的な朗詠法に、心ひかれないでもなかったが、しかしどうも単調なように思われ、ドイツ人の眼では真実のものだとは考えられなかった。――(彼が見て取ったところによれば、朗詠法が真実らしくなろうとすればするほど、いかにフランス語が音楽に不適当であるかをますます目立たせるのであった。あまりに論理的で、あまりに形が正しく、あまりに輪郭がはっきりしていて、それ自身で完全な一世界をなしてはいるが、しかしそれも密閉された世界なのであった。)――けれどもその試みは珍しいものであった。ク
前へ
次へ
全39ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング