廉恥な話を憤慨した。人々はそれに反対して、この話には少しも破廉恥な点はなく、自然な点ばかりだと言った。そしてこの話の女主人公も、ただ優美な婦人であるばかりでなく、卓越した女性[#「女性」に傍点]であるということに、皆の意見は一致した。ドイツ人は叫びたてた。それなら女性とはどういうものだと思っているのかと、シルヴァン・コーンは狡猾《こうかつ》に尋ねた。クリストフは罠《わな》を張られているのを感じた。しかし彼は奮激と確信とに駆られて、それにすっかり引っかかった。彼はそれらの嘲弄《ちょうろう》的なパリー人に向かって、自分の恋愛観を説明しだした。しかし適当な言葉が見つからずぐずぐずその言葉を捜し求め、記憶をたどってはほんとうらしからぬ表現をばかりあさり、とんでもないことを言い出しては聴《き》き手を愉快がらせ、しかもこの上なく真面目《まじめ》くさって、笑われてもさらに平気で、泰然と言いつづけた。いくら彼でも、厚かましく嘲笑されてることに気づかないではなかったが、それを気にかけなかったのである。ついに彼は、ある文句にはまり込んで、それから脱することができず、テーブルを拳固《げんこ》で一撃し、そして口をつぐんだ。
人々は彼をさらに議論の中へ引き込もうとした。しかし彼は眉《まゆ》をしかめて、恥ずかしげないらだった様子で、テーブルの上に両肱をつき、もう誘いに乗らなかった。食ったり飲んだりすること以外には、食事の終わるまで、もはや歯の根をゆるめなかった。葡萄《ぶどう》酒にろくろく口をつけようともしないそれらのフランス人に引き代え、彼はやたらに痛飲した。隣りの男は意地悪く彼を励まして、たえず杯を満たしてくれたが、彼は何の考えもなくそれを飲み干していた。彼はかかる暴飲暴食には慣れなかったけれども、ことにそれは数週間の節食の後ではあったけれども、よくもち堪えることができて、人々が望んでるような滑稽《こっけい》な様子は見せなかった。ただ何かぼんやり考え込んでいた。人々はもう彼に注意しなかった。彼は酒のためにうとうとしてるのだと思われていた。彼はフランス語の会話を聞き取るの疲れ以外に、文学――俳優、作者、出版者、文学上の楽屋や寝所――の詩ばかりなのにも、聞き疲れていた。世界がそれだけの範囲に狭《せば》まったかのようだった。周囲の新しい人々の顔や響きなどから、彼は一つの顔形も一つの思想もはっきりとらえることができなかった。注意のこもらないぼんやりした彼の近視眼は、おもむろに食卓を見回して、人々の上にじっとすわりながらも、別に見ているようでもなかった。けれども彼はだれよりもよく人々を見ていた。ただそれを意識していないだけだった。彼の眼は、ごく細かな物の断片を嘴《くちばし》でくわえてそれを一瞬間に噛《か》み砕くような、それらのパリー人やユダヤ人などの眼と違っていた。彼は海綿のように、沈黙のうちに徐々に人々を吸い込み、そしてもち去るのであった。彼自身も、何にも見ず何にも記憶しないような気がしていた。彼が一人になって自分自身のうちをながめ、すべてを奪い取ってきたと気づくのは、長い後――数時間またはしばしば数日の後――であった。
しかしこの時彼は、一口も食べそこなうまいとしてやたらに頬張《ほおば》る、愚鈍なドイツ人の様子をしか示していなかった。そして、仲間の者らが呼びかわす名前よりほかには、何にも聞き取っていなかった。それら多くのフランス人が、フラマン人やドイツ人やユダヤ人や東洋人やイギリス産アメリカ人やスペイン産アメリカ人などのような、外国人的な名前をどうしてもってるのかを、彼は酔っ払いの執拗《しつよう》さで怪しんでいた。
彼は人々が食卓から立ち上がったのに気づかなかった。ただ一人すわったままでいた。そしてライン河畔の丘、大きな森、耕された畑、水辺の牧場、年老いた母、などのことを夢想していた。数人の仲間がまだ、室の向こうの隅《すみ》で立ち話をしていた。多くの者はもう出かけてしまっていた。彼もついに思い切って立ち上がり、だれにも眼をくれずに、入口にかかってる自分のマントと帽子とを取りに行った。それらを身につけてから、挨拶《あいさつ》もせずに出かけようとした。その時|扉《とびら》の開き目から、隣りの控え室に、ある物を見つけて夢中になった。それは一台のピアノだった。彼は数週間なんらの楽器にも手を触れたことがなかったのである。彼はその室にはいり、なつかしげに鍵《キー》をなで、腰をおろしてしまって、帽子をかぶりマントを着たままで、演奏し始めた。どこの家だかすっかり忘れていた。二人の男が聞きに忍び込んできたのもわからなかった。一人はシルヴァン・コーンだった。彼は音楽熱愛家だった――なぜだかは人間にはわからない。というのは、彼は音楽に少しも理解がなかったし、いいのも悪いのも
前へ
次へ
全97ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング