。」とクリストフは叫び出した。――(彼はもうフランス語の言い回しを多少知っていた。)――「そんな種類の人間だと僕を思ったら間違いです。まともに顔を見なかったり口先だけで物を言ったりするやり方で、僕をへこませるとでも思ってるんですか。はいって来た時だって、僕の挨拶《あいさつ》に答えもしないで……。僕に向かってそんな態度をして、あなたはいったいなんです? 音楽家とでも言うんですか。何か書いたことでもありますか。……そして、作曲を生命としてる僕に向かって、作曲の仕方を教えようとでもいうんですか。……そして、僕の音楽を読んだあとに、小娘どもを踊らせるために、大音楽家の作品を去勢してくだらないものになすこと以外には、何も頼むような仕事はないというんですか。……パリーの者はあなたから甘んじて教えを受けるほど卑劣なら、そういうパリー人を相手になさるがいい。僕は、そんなことをするよりくたばってしまう方がまだましです。」
 激烈な調子を押えることができなかったのである。
 ヘヒトは冷然として言った。
「それはあなたの勝手です。」
 クリストフは扉《とびら》をがたりといわして出て行った。ヘヒトは肩をそびやかした。そして、笑ってるシルヴァン・コーンに言った。
「皆と同じように、また頼みに来るようになりますよ。」
 彼は心中ではクリストフをかっていた。かなり聡明《そうめい》だったから、作品の価値ばかりではなく、また人間の価値を感ずることができるのだった。クリストフの攻撃的な憤りのもとに、彼は一つの力を見て取っていた。そして力の稀《まれ》なこと――他の方面よりもいっそう芸術界において稀なこと――をよく知っていた。しかし自尊心の反発があった。いかなることがあっても自分の方が誤ってるとは承認したくなかった。クリストフの真価を認めてやりたいという公平な心はもっていたが、少なくとも向こうから頭を下げて来ない以上は、認めてやることができなかった。彼はクリストフがまたやって来るのを待った。彼は悲しい悲観思想と人生の経験とによって、困窮のためには人の意志もかならずや卑しくなるということを、よく知っていた。

 クリストフは宿に帰った。憤りは落胆に代わっていた。万事終わった気がしていた。当てにしていたわずかな支持も、こわれてしまったのである。ただにヘヒトばかりではなく、紹介の労を取ってくれたコーンとも、永遠の敵となったのだと疑わなかった。敵都における絶対の孤独だった。ディーネルとコーンとのほかには、一人の知人もなかった。ドイツで交誼《こうぎ》を結んだ美しい女優のコリーヌは、パリーにいなかった。彼女はまだ他国巡業中で、アメリカに行っていて、こんどは独立でやっていた。有名になっていたのである。新聞には彼女の旅の華々《はなばな》しい記事が出ていた。また彼は、思いがけなくも職を失わせた結果になってる、あの若い家庭教師のフランス婦人については、長い間考えることに苛責《かしゃく》の種となったので、パリーへ行ったら捜し出そうと、幾度みずから誓ったかわからなかった(第四巻反抗参照)。しかし今パリーへ来てみると、たった一つのことを忘れてるのに気がついた。それは彼女の姓だった。どうしても思い出せなかった。ただアントアネットという名だけしか覚えていなかった。それにまた、もし思い出すことがあろうとも、こんなにたくさんの人が集まってる中で、一人の若い家庭教師たる彼女をどうして見出せよう!
 彼はできるだけ早く、糊口《ここう》の道を立てなければならなかった。もう五フランしか残っていなかった。彼は主人へ、でっぷりした飲食店の主人へ、この付近にピアノの稽古《けいこ》を受けそうな人はいないだろうかと、嫌々《いやいや》ながらも思い切って尋ねてみた。主人は日に一度しか食事をせずにドイツ語を話してるこの宿泊人を、前からあまり尊敬してはいなかったが、一音楽家にすぎないことを知ると、そのわずかな敬意をも失ってしまった。音楽を閑人《ひまじん》の業《わざ》だと考える古めかしいフランス人だったのである。彼は馬鹿にしてかかった。
「ピアノですって……。あなたはピアノをたたくんですか。結構なことですな。……だが、すき好んでそんな商売をやるたあ、どうも不思議ですね。私にゃどんな音楽を聞いても雨が降るようにしか思えないんですが……。あとで私にも教えてもらいますかな。どう思う、君たちは?」と彼は酒を飲んでる労働者らの方へ向いて叫んだ。
 彼らは騒々しく笑った。
「きれいな商売だ。」と一人が言った。「汚《きたな》かねえよ。それに、女どもの気に入るからな。」
 クリストフにはまだフランス語がそうよくはわからなかった。悪口はなおさらだった。彼はなんと言おうかと考えた。怒《おこ》っていいものかどうかわからなかった。おかみさんは彼を気の
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