ているんだ。どうして片付けていいかわからないほどだ。まったくやりきれない。病気にでもなりそうだ。」
「気分がすぐれないのかい。」とクリストフは気づかわしい調子で尋ねた。
コーンは嘲《あざけ》り気味の一|瞥《べつ》を注いで答えた。
「まったくいけない。この数日へんてこだ。非常に苦しい気持がする。」
「そりゃたいへんだ!」とクリストフは彼の腕を取りながら言った。「ほんとに用心したまえ。身体を休めなけりゃいけないね。僕まで余計な心配をかけて、実に済まない。そう言ってくれりゃよかったのに。ほんとにどんな気持だい?」
彼が悪い口実をもあまり真面目《まじめ》に取ってるので、コーンは愉快なおかしさがこみ上げてくるのをつとめて押し隠しながらも、相手の滑稽《こっけい》な純朴《じゅんぼく》さに気が折れてしまった。皮肉はユダヤ人らにとって非常に大きな楽しみであって――(この点においては、パリーにおけるキリスト教徒の多くはユダヤ人と同じである)――皮肉を浴びせる機会を与えてさえもらうならば、いかに不快な者にたいしても、また敵にたいしてまでも、とくに寛大な心をいだくようになるのである。そのうえコーンはまた、自分一身のことをクリストフが心配してくれるのを、感動せずにはいられなかった。彼は世話をしてやりたい気持になった。
「ちょっと思いついたことがあるんだがね。」と彼は言った。「稽古《けいこ》の口があるまで、楽譜出版の方の仕事をしないかね。」
クリストフは即座に承知した。
「いいことがある。」とコーンは言った。「ある大きな楽譜出版屋の重立った一人で、ダニエル・ヘヒトという男と、僕は懇意にしてる。それに紹介しよう。何か仕事があるだろう。僕は君の知るとおり、その方面のことは何にもわからない。しかしあの男はほんとうの音楽家だ。君なら訳なく話がまとまるだろう。」
二人は翌日の会合を約した。コーンはクリストフに恩をきせて追っ払ったので、悪い気持はしなかった。
翌日、クリストフはコーンの店へ誘いに来た。彼はコーンの勧めによって、ヘヒトへ見せるために自分の作曲を少しもって来た。二人はヘヒトを、オペラ座近くの楽譜店に見出した。二人がはいって来るのを見ても、ヘヒトは傲然《ごうぜん》と構えていた。コーンの握手へは冷やかに指先を二本差し出し、クリストフの儀式張った挨拶《あいさつ》へは答えもしなかった。そしてコーンの求めによって、二人を従えて隣りの室へはいった。二人にすわれとも言わなかった。火のない暖炉にもたれて壁を見つめたままつっ立っていた。
ダニエル・ヘヒトは、四十年配の背の高い冷静な男で、きちんと服装を整え、いちじるしくフェーニキア人の特長を有し、怜悧《れいり》で不愉快な様子、渋めた顔つき、黒い毛、アッシリアの王様みたいな長い角張った頤髯《あごひげ》をもっていた。ほとんど真正面に人を見ず、冷やかなぶしつけな話し方をして、挨拶《あいさつ》までが侮辱の言のように響いた。でもその横柄《おうへい》さはむしろ外面的のものだった。もちろんそれは、彼の性格のうちにある軽蔑《けいべつ》的なものと相応じてはいたが、しかしなおいっそう、彼のうちの自動的な虚飾的なものから来るのであった。こういう種類のユダヤ人は珍しくない。そして世間では彼らのことをあまりよく言わない。彼らのひどい剛直さは、身体と魂との不治の頓馬《とんま》さ加減に由来することが多いけれども、世間ではそれを傲慢《ごうまん》の故《ゆえ》だとしている。
シルヴァン・コーンは、気障《きざ》な饒舌《じょうぜつ》の調子で大袈裟《おおげさ》にほめたてながら、世話をしようというクリストフを紹介し始めた。クリストフは冷やかな待遇に度を失って、帽子と原稿とを手にしながら身を揺っていた。コーンの言葉が終わると、それまでクリストフの存在を気にもかけないでいたようなヘヒトは、軽蔑《けいべつ》的にクリストフの方へ顔を向け、しかもその顔をながめもしないで言った。
「クラフト……クリストフ・クラフト……私はそんな名前をまだ聞いたことがない。」
クリストフは胸のまん中を拳固《げんこ》でなぐられたようにその言葉を聞いた。顔が赤くなってきた。彼は憤然と答えた。
「やがてあなたの耳へもはいるようになるでしょう。」
ヘヒトは眉根《まゆね》一つ動かさなかった。あたかもクリストフがそこにいないかのように、泰然と言いつづけた。
「クラフト……いや、私は知らない。」
自分に知られていないのはくだらない証拠だと考える者が、世にあるが、彼もそういう人物だった。
彼はドイツ語でつづけて言った。
「そしてあなたはライン生まれですね。……音楽に関係する者があちらに多いのには、実に驚くほどです。自分は音楽家だと思っていない者は、一人もないと言ってもいい。」
彼は冗談
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