とクリストフは考えた、「この男は何にも知らないんだな。だからこんなに親切なんだ。知ったらがらりと変わってしまうだろう。」
 彼は昂然《こうぜん》と語りだした、自分を最も難境に陥らせるかもしれない事柄を、すなわち、兵士らとの喧嘩《けんか》、自分が受けた追跡、国外への逃亡などを。
 コーンは腹をかかえて笑った。
「すてきだ」と彼は叫んでいた、「すてきだ! 実に愉快な話だ!」
 彼は熱心にクリストフの手を握りしめた。官憲の鼻をあかしてやったその話を、この上もなく面白がっていた。話の主人公らを知っているだけになお面白がっていた。その滑稽《こっけい》な方面を眼に見るような気がしていた。
「ところで、」と彼はつづけて言った、「もう午《ひる》過ぎだ。つき合ってくれたまえ……いっしょに食事をしよう。」
 クリストフはありがたく承知した。彼はこう考えていた。
「これは確かにいい人物だ。俺の思い違いだった。」
 二人はいっしょに出かけた。途中でクリストフは思い切って要件をもち出した。
「君にはもう僕の境遇がわかってるだろう。僕は世に知られるまで、さしあたり仕事を、音楽教授の口でも、求めに来たんだが。僕を推薦してくれないかね。」
「いいとも!」とコーンは言った。「望みどおりの人に推薦しよう。こちらで僕はだれでも知っている。なんでもお役にたとう。」
 彼は自分のもっている信用を示すのがうれしかった。
 クリストフは感謝にくれた。心から大きな重荷が取れた心地がした。
 食卓につくと彼は、二日も前から物を食べなかったかのようにむさぼり食った。首のまわりにナフキンを結えつけて、ナイフですぐ食べた。コーンのハミルトンは、そのひどい食い方や田舎《いなか》者めいた様子に、ごく不快を感じた。また自慢にしてる事柄をあまり注意してもくれないことに、同じく不満を覚えた。彼は自分の艶福《えんぷく》や幸運の話をして、相手を煙に巻いてやろうとした。しかしそれは無駄《むだ》な骨折りだった。クリストフは耳を傾けないで、無遠慮に話をさえぎった。彼は舌がほどけてきて馴《な》れ馴れしくなっていた。謝恩の念で心がいっぱいになっていた。そして未来の抱負を率直にうち明けながら、コーンを困らした。ことに、テーブルの上から無理にコーンの手を取って、心こめて握りしめたので、コーンをさらにやきもきさした。しまいには、感傷的なことを言い出して、故国にいる人々や父なるライン[#「父なるライン」に傍点]のために、ドイツ流の祝杯を挙げたがったので、コーンのいらだちは極度に達した。コーンは彼が今にも歌い出そうとするのを見てたまらなくなった。隣席の人々は二人の方を皮肉そうにながめていた。コーンは急な用務があるという口実を設けて立ち上がった。クリストフはそれにすがりついた。いつ推薦状をもらって、その家へやって行き、稽古《けいこ》を始めることができるか、それを知りたがった。
「取り計らってあげよう。今日、今晩にでも。」とコーンは約束した。「すぐに話をしてみよう。安心したまえ。」
 クリストフは執拗《しつよう》だった。
「いつわかるだろう?」
「明日《あした》……明日……または明後日。」
「結構だ。明日また来よう。」
「いやいや、」とコーンは急いで言った、「僕の方から知らせよう。君を煩わさないように。」
「なあに、煩すも何もあるものか。そうだろう。それまで僕は、パリーで何にも用はないんだ。」
「おやおや!」とコーンは考えた。そして大声に言い出した。「いや、手紙を上げる方がいい。しばらくは面会ができないかもしれない。宿所を知らしてくれたまえ。」
 クリストフは宿所を彼に書き取らした。
「よろしい。明日手紙を上げよう。」
「明日?」
「明日だ。間違いないよ。」
 彼はクリストフの握手からのがれて逃げ出した。
「あああ!」と彼は思っていた。「たまらない奴だ。」
 彼は店に帰ると、「あのドイツ人」が尋ねて来たら留守にするんだと、給仕に言いつけた。――十分もたつと、もうクリストフのことは忘れてしまった。
 クリストフは汚《きたな》い巣へもどった。心動かされていた。
「親切な男だ!」と彼は思っていた。「俺は彼にたいして悪いことをしたことがある。だが彼は俺を恨んでもいない!」
 そういう悔恨の念が重く心にかかった。昔悪く思ったことが今いかに心苦しいか、昔ひどく当たったことを許してもらいたいと今どんなに思ってるか、コーンへ書き送ろうとした。昔のことを思うと眼に涙が湧《わ》いてきた。しかし彼にとっては、一通の手紙を書くのは、大譜表を書くに劣らないほどの大仕事だった。そして、宿屋のインキやペンを、それは実際ひどいものではあったが、盛んにののしり散らした後、四、五枚の紙を書きなぐり消したくり引き裂いた後、もう我慢ができなくなってすべてを放
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