ことは彼ら二人にとっていかにも困難なことではあったが、絶望的な意志の努力でやってのけた。
グラチアはひっそりとした広い庭の中にもどってきた。親しい自然と愛する人々とをふたたび見出して喜んだ。彼女の痛める心は晴れていったが、太陽の光に少しずつ消えてゆく霧の帷《とばり》のような北方の憂鬱《ゆううつ》を多少、その心の中に彼女は持ち帰って、なおしばらくは保っていた。彼女は時おり、不幸なクリストフのことを考えた。芝生《しばふ》の上に寝ころんで、耳|馴《な》れた蛙《かえる》や蝉《せみ》の声を聞きながら、あるいはピアノの前にすわって、昔よりはしばしばそれと心で話をしながら、彼女はみずから選んだ友のことを夢想した。幾時間も彼と声低く語り合った。いつかは彼が扉《とびら》を開いてはいってくることも、あり得べからざることだとは思えなかった。彼女は彼に手紙を書いた。そして長く躊躇《ちゅうちょ》したあとで、無名にしてその手紙を贈った。ある朝ひそかに、広い耕作地の彼方《かなた》三キロも隔たった村の郵便箱に、胸をとどろかせながらそれを投じに行った。――親切なやさしい手紙であって、彼は孤独ではないこと、落胆してはいけないこと、彼のことを考えてる人がいること、彼を愛してる人がいること、彼のために神に祈ってる人がいること、などが告げてあった。――しかも憐《あわ》れな手紙、愚かにも途中に迷ってしまって、彼の手には届かなかった。
それからは、単調な清朗な日々が、この遠い女友だちの生活のうちに開けていった。そして、イタリーの平和が、平穏と落ち着いた幸福と無言の観照との精神が、その清いひそやかな心の中に返ってきた。その底にはなお、小揺《こゆる》ぎもない小さな炎のように、クリストフの思い出が燃えつづけていた。
しかしクリストフは、遠くから自分を見守《みまも》っていてくれて、将来自分の生活中に大なる場所を占むることとなる、この純朴《じゅんぼく》な愛情の存在を知らなかった。また彼は、自分が侮辱されたあの音楽会に、将来友たるべき一人の男が、手を取り合いながら相並んで進むべき親しい道づれが、出席していたことを知らなかった。
彼は孤独だった。孤独であるとみずから思っていた。それでも彼は少しも失望しなかった。先ごろドイツで苦しんだあの苦々《にがにが》しい悲しみを、彼はもう感じなくなっていた。彼はいっそう強くなりいっそう成育していた。万事かくのごときものだということを知っていた。パリーにかけていた幻はすべて滅びた。どこへ行っても同じ人間どもばかりだった。腹をすえてかからなければならなかった。世間相手の子どもらしい闘争に固執してはいけなかった。平然として自分自身たることが必要であった。ベートーヴェンが言ったように、「もし生命の力をすべて世間のことに与えてしまうならば、最も高尚なもの最も優良なものにたいしては、何がわれわれに残るであろうか?」彼は昔あれほど苛酷《かこく》に批判した自分の天性と自分の民族とを、今力強く意識しだした。パリーの雰囲気《ふんいき》に圧倒さるるに従って、祖国のそばに逃げてもゆきたい欲求を、祖国の精華が集められてる詩人や音楽家の腕の中に逃げ込みたい欲求を感じた。彼らの書物をひらくや否や、日に照らされたライン河の囁《ささや》きが、うち捨ててきた旧友のやさしい微笑《ほほえ》みが、室の中に満ちてきた。
いかに彼は彼らに対して忘恩であったろう! どうして彼は、彼らの誠実な好意の貴《とうと》さをもっと早く感じなかったのか? 彼は自分がドイツにいた時、彼らにたいして言った不正な侮辱的な事柄を皆、思い起こしては恥ずかしくなった。あの当時彼は、彼らの欠点、彼らの拙劣な儀式張った態度、彼らの涙っぽい理想主義、彼らのつまらない思想上の虚偽、彼らのつまらない卑怯《ひきょう》さ、などをしか見てはいなかった。ああそういうものは、彼らの大なる美点に比ぶればいかに些細《ささい》なものだろう! どうして彼は、それらの欠点にたいしてあれほど酷薄であり得たのか? 今になって思えば、その欠点のために彼らはさらに強く人の心を打つのであった。なぜなら、そのために彼らはさらに人間的なのであったから。反動によって彼は、昔自分が最も不正に取り扱った人々にたいして、より多く心ひかれた。シューベルトやバッハにたいして、彼はいかにひどいことを言ったことであるか! そして今や彼は、彼らのすぐ近くに自分自身を感じた。かつて彼から辛辣《しんらつ》に滑稽《こっけい》な点を指摘されたそれらの偉大な魂は、彼が遠くへ流竄《りゅうざん》の身となった今となって、彼の方へ身をかがめて、親切な微笑を浮かべながら彼に言っていた。
「兄弟よ、われわれが控えている。しっかりせよ。われわれもまた、不当に大きな悲惨をなめたのだ……。なに、どう
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