さした。クリストフの小言《こごと》を受けて不機嫌になってる歌手をなだめるため、彼は急いでそのそばに行って、重苦しい冗談を盛んに言いかけた。その取りなしを見ていたクリストフは、我慢しかねた様子を押し隠しもしないで、無理に座主をこちらへ来さして、そして言った。
「議論の余地はありません。私はあの婦人がきらいです。実に不愉快です。しかし選んだのは私ではありません。いいように都合をつけていただきたいものです。」
 座主は困った様子で下を向いて、気がなさそうな調子で言った。
「私にはどうにもできません。ルーサン氏へ話してください。」
「なんでルーサン氏に関係があるんです?」とクリストフは尋ねた。「私はこんなことで氏にめんどうをかけたくありません。」
「なにめんどうな訳があるものか。」とシルヴァン・コーンは皮肉らしく言った。
 そして彼は、ちょうどはいって来たルーサンの方を指《ゆび》さした。
 クリストフはその前に行った。ルーサンはすこぶる上|機嫌《きげん》で大声をたてた。
「どうしました、もう済んだのですか。僕も少し聞きたかったですね。ところで、君の御意見はどうです。満足ですか。」
「万事好都合です。」とクリストフは言った。「お礼の申しようもありません……。」
「いや、どうしまして。」
「ただ一つうまくゆかないことがあるんです。」
「言ってごらんなさい。なんとか都合しましょう。君が満足しさえすればいいんですから。」
「というのは、あの女歌手のことです。ここだけの語ですが、あれはとうてい駄目《だめ》です。」
 ルーサンの晴れやかな顔はにわかに冷え切った。彼は厳格な様子で言った。
「それは意外ですね。」
「あの女はまったくなんの価値もありません。」とクリストフは言いつづけた。「声も、趣味も、技倆《ぎりょう》も、露ほどの才能もありません。先刻お聞きにならなくて仕合わせでした……。」
 ルーサンはますますしかつめらしい様子になり、クリストフの言葉をさえぎって、きっぱりと言ってのけた。
「僕はサント・イグレーヌ嬢の真価を知っています。大なる手腕をもってる芸術家です。僕は非常に感嘆しています。パリーの趣味ある人々は皆、僕と同様に考えています。」
 そして彼はクリストフに背中を向けた。見ると、彼はその女優に腕を貸していっしょに出て行った。クリストフは茫然《ぼうぜん》とたたずんでいた。すると、先刻から大喜びをしてその光景を見ていたシルヴァン・コーンが、彼の腕をとらえ、いっしょに劇場の階段を降りてゆく時に、笑いながら言った。
「だが君は、あの女が彼の情婦だということを知らないのか。」
 クリストフはそれで事情がわかった。してみると、作品が上場されたのは、彼女のためにであって、彼のためにではなかったのだ。ルーサンの意気込み、その出費、取り巻き連中の熱心、などの理由が彼にわかった。彼はシルヴァン・コーンの言葉に耳を傾けて、サント・イグレーヌに関する話を聞いた。彼女は演芸館の歌手であって、通俗な小芝居に出て成功した後、そういう連中の多くの例に漏れず、もっと自分の才能にふさわしい舞台で歌いたいという野心を起こした。そしてルーサンを頼りとして、オペラ座かオペラ・コミック座かへはいりたがっていた。もとよりそれを望んでいたルーサンは、ダヴィデ[#「ダヴィデ」に傍点]上演の機会をとらえて、ほとんどなんらの劇的所作をも要求せず、しかも形体の優美さを十分に発揮させてくれる役を、その新進女優にやらして、彼女の抒情《じょじょう》的天分を、パリーの公衆に安全に見せてやるつもりだった。
 クリストフはその話を終わりまで傾聴した。それから、シルヴァン・コーンの腕を離して笑い出した。彼は長い間笑った。笑い絶えてから言った。
「僕は君らがきらいだ。フランス人は皆きらいなんだ。君らにとっては、芸術はなんでもないんだろう。いつでも婦人ばかりが問題だ。一人の舞妓《まいこ》のために、一人の歌妓《かぎ》のために、某氏の情婦のために、あるいは某夫人の贔屓《ひいき》の女のために、歌劇《オペラ》を上演するのだ。君らは淫猥《いんわい》なことをしか頭においていないんだ。だが僕はそのために君らを憎みはしない。君らはそういう人間だ。よかったらそのままでいるがいい。そして泥水《どろみず》の中に餌《えさ》を捜し回りたまえ。しかし僕は別れよう。僕たちはいっしょに暮らせるようにはできていないんだ。さようなら。」
 彼はコーンと別れた。そして家に帰ると、作品を撤回する由をルーサンへ書き贈った。もちろん撤回の理由も隠さなかった。
 それが、ルーサンおよびその一派との絶縁だった。その結果はただちに現われてきた。諸新聞は上演計画についてある風説を流布《るふ》していたし、作曲家と実演者との葛藤《かっとう》の話は噂《うわさ》の種と
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