。それは彼にとって、音楽中の最も美しい音楽であり、パリー唯一の音楽だった。彼は夕方、河岸通りや古いフランスの庭園で、幾時間も過ごしながら、紫色の靄《もや》に浸ってる大木、灰色の像や柱頭、幾世紀もの光を吸収した王政時代の塔碑の苔生《こけむ》した石、それらの上に射《さ》している光線の諧調《かいちょう》を――細やかな日光と乳白色の水蒸気とでできてる、その微妙な大気を味わった。その大気には、銀色の埃《ほこり》の中に、民族のにこやかな精神が漂っていた。
 ある晩彼は、サン・ミシェルの橋の近くの欄壁にもたれて、河の水をながめながら、欄壁の上に並んでるある古本屋の書物を、何気なくいじっていた。そしてふとミシュレーの端本《はほん》をひらいた。彼はかつてこの史家の数ページを読んだことがあったけれど、そのフランス式な誇張や言語の陶酔や性急な調子などのために、あまり面白く思わなかった。ところがその晩は、初めから感動させられた。それはジャンヌ・ダルクの裁判の終わりの方だった。彼はシルレルの作でこのオルレアンの少女のことは知っていた。しかしこれまで彼女は彼にとって、大詩人から想像的生活を与えられてる架空的な女丈夫にすぎなかった。しかるに今突然その実相が彼の前に現われて、彼女は彼をとらえてしまった。彼はその厳《おごそ》かな物語の悲壮な凄《すご》みに心打たれながら、読みつづけていった。ジャンヌがその夕方死ぬことを知って、恐怖のあまり気を失うところまで読んだ時、彼の手は震えだし、涙が出てきて、読みつづけられなかった。彼は病気のために弱っていて、みずから腹だたしいほどおかしな多感性になっていた。――彼は読み終えようとしたが、もう間に合わなかった。古本屋は箱をしまいかけていた。彼はその本を買おうときめた。ポケットを探ってみると、わずか六スーしか残っていなかった。これほど貧しいのも珍しいことではなかった。彼は別に気をもみはしなかった。食物を購《あがな》ったばかりだった。翌日ヘヒトのところへ行けば、楽譜の稿料として多少の金をもらえるはずだった。しかし、翌日まで待つのはつらかった。なぜ先刻、わずかな残金を食物の代に費やしたのか。ポケットにあるパンと腸詰《ちようづめ》とを、古本屋へ書物の代として提供することができるなら!
 翌朝ごく早く、彼は金をもらいにヘヒトの家へ出かけた。しかし、戦いの大天使――ジャンヌの
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