。病院にはいりたくないと叫び、ここで一人で死にたいと叫んだ。が口からは、訳のわからない音しか出なかった。それでも女は了解した。というのは、彼の味方をして、彼を落ち着かしてくれたから。その女がだれであるかを彼はしきりに知りたがった。非常な努力をしてまとまった言葉を発し得るようになると、すぐにそのことを尋ねた。彼女の答えでは、屋根裏の隣り同士の女で、彼がうなるのを壁越しに聞き、助けを求めてるのだと考えて、勝手にはいって来たのだった。口をきいて疲れてはいけないと、彼女はていねいに頼んだ。彼はそれに従った。そのうえ、今しがた口をきいた努力のために、がっかりしてしまっていた。で彼はじっとして口をつぐんだ。しかし彼の頭は働きつづけて、散らばった記憶をどうにか寄せ集めようとした。いったいどこでこの女を見かけたのかしら?……しまいに彼は思い出した。そうだ、屋根裏の廊下で出会ったことがあるのだった。下女で、シドニーという名前だった。
彼は半ば眼をつぶりなから、彼女をながめた。彼女はそれに気づかなかった。背の低い女で、真面目《まじめ》な顔つき、つき出た額《ひたい》、ひきつめた髪、骨張った蒼白《あおじろ》い露《あら》わな、頬《ほお》の上部と|顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》、短い鼻、穏やかな頑固《がんこ》な眼つきをしてる、うす青い眼、引きしまってる太い唇《くちびる》、貧血した顔色、卑下し遠慮し多少堅くなってる様子だった。彼女はてきぱきした黙々たる心尽くしで、クリストフの世話をしながらも、親しみは少しも見せず、階級の違いを忘れない召使の控え目さを、決して越えることがなかった。
それでも、彼が快方に向かって話ができるほどになると、彼の親切な善良さのために、シドニーは次第に多少自由に口をきくようになった。しかしいつも気をつけていた。言うのを控えている事柄があった(それが様子でわかった)。彼女は卑下と矜持《きょうじ》との交り合った性格だった。クリストフは彼女がブルターニュ生まれであることを知った。故郷に父親がいるのだが、その父親のことを彼女はごく慎み深く話した。しかし、その父親は酒飲みで、さんざん遊び暮らし、娘に迷惑ばかりかけてることは、クリストフもたやすく推察し得た。彼女は搾《しぼ》り取られながら、気位《きぐらい》を高くもって一言も文句を言わなかった。そして欠かさず月
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