ラテン芸術を見るの準備を彼に与えはしなかった。土の匂《にお》いがし、土から発する勇ましい猛獣格闘者の粗野な匂いがする、その獰猛《どうもう》な天才から受ける刺激が、クリストフの心の中には残っていた。彼の眼は、その酔える野人の、生々《なまなま》しい光に焼かれ、熱狂的な雑色に慣れていたので、フランス芸術の薄ぼかしの色や細分された柔らかな語調などには、なかなか調和しがたかった。
しかしながら、人は異なった世界に無難で生き得るものではない。いつしかその影響を受ける。いかに自分自身のうちに閉じこもっていても、いつかは何かが変化されたことに気づくものである。
ルーヴル博物館の広間をうろついた夕方、クリストフのうちには今までと変わってる何かがあった。彼は疲れ、凍え、飢え、一人きりであった。あたりには寂しい陳列室の中に影がこめてきて、眠ったように静かな物の形が生き生きとしてきた。エジプトのスフィンクス、アッシリアの怪物、ペルセポリスの牡牛《おうし》、ポリシーのねばねばした蛇《へび》、などの間をクリストフは、ぞっとしながら黙って通り過ぎた。お伽噺《とぎばなし》の世界にいるような気がした。神秘な感動が心に上ってきた。そして次第に包み込まれていった、人類の夢に――人の魂の不思議な花に……。
絵画陳列室の金色の埃《ほこり》、燦然《さんぜん》たる爛熟《らんじゅく》せる色彩の庭、画面の立ち並んだ牧場、しかも空気の不足してるそれらの中にあって、クリストフは熱に浮かされ、半ば病気の心地だったが、はっと心打たれた。――飢えと、室の微温と、おびただしい絵画とに、彼はぼんやりして、ほとんど何にも見ずに通り過ぎ、眩暈《めまい》がしていた。そして水に臨んだ先端で、レンブラントの善良なるサマリア人[#「善良なるサマリア人」に傍点]の前まで来た時、彼は倒れまいとして、絵画のまわりの鉄欄に両手でつかまり、ちょっと眼を閉じた。その眼をまた開いて、すぐ前の正面にあるその作を見ると、魅惑されてしまった……。
日は暮れかかっていた。昼の明るみはすでに遠ざかって消えていた。眼に見えない太陽の光が闇《やみ》のうちに沈み込んでいた。昼間の働きに倦《う》んでじっと休《やす》らってる魂から、幻覚が出て来ようとする怪しい時刻だった。すべてのものが黙っている。聞こえるものは自分の動脈の音ばかり。もはや身を動かす力もなく、ほとんど
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