ことは彼ら二人にとっていかにも困難なことではあったが、絶望的な意志の努力でやってのけた。
 グラチアはひっそりとした広い庭の中にもどってきた。親しい自然と愛する人々とをふたたび見出して喜んだ。彼女の痛める心は晴れていったが、太陽の光に少しずつ消えてゆく霧の帷《とばり》のような北方の憂鬱《ゆううつ》を多少、その心の中に彼女は持ち帰って、なおしばらくは保っていた。彼女は時おり、不幸なクリストフのことを考えた。芝生《しばふ》の上に寝ころんで、耳|馴《な》れた蛙《かえる》や蝉《せみ》の声を聞きながら、あるいはピアノの前にすわって、昔よりはしばしばそれと心で話をしながら、彼女はみずから選んだ友のことを夢想した。幾時間も彼と声低く語り合った。いつかは彼が扉《とびら》を開いてはいってくることも、あり得べからざることだとは思えなかった。彼女は彼に手紙を書いた。そして長く躊躇《ちゅうちょ》したあとで、無名にしてその手紙を贈った。ある朝ひそかに、広い耕作地の彼方《かなた》三キロも隔たった村の郵便箱に、胸をとどろかせながらそれを投じに行った。――親切なやさしい手紙であって、彼は孤独ではないこと、落胆してはいけないこと、彼のことを考えてる人がいること、彼を愛してる人がいること、彼のために神に祈ってる人がいること、などが告げてあった。――しかも憐《あわ》れな手紙、愚かにも途中に迷ってしまって、彼の手には届かなかった。
 それからは、単調な清朗な日々が、この遠い女友だちの生活のうちに開けていった。そして、イタリーの平和が、平穏と落ち着いた幸福と無言の観照との精神が、その清いひそやかな心の中に返ってきた。その底にはなお、小揺《こゆる》ぎもない小さな炎のように、クリストフの思い出が燃えつづけていた。

 しかしクリストフは、遠くから自分を見守《みまも》っていてくれて、将来自分の生活中に大なる場所を占むることとなる、この純朴《じゅんぼく》な愛情の存在を知らなかった。また彼は、自分が侮辱されたあの音楽会に、将来友たるべき一人の男が、手を取り合いながら相並んで進むべき親しい道づれが、出席していたことを知らなかった。
 彼は孤独だった。孤独であるとみずから思っていた。それでも彼は少しも失望しなかった。先ごろドイツで苦しんだあの苦々《にがにが》しい悲しみを、彼はもう感じなくなっていた。彼はいっそう強くなりい
前へ 次へ
全194ページ中155ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング