うれしかった。
 クリストフは稽古《けいこ》を始めた。彼女はいやに堅くとりすまして、両腕が身体に糊《のり》付けになり、身動きすることもできなかった。クリストフが彼女の小さな手の上に自分の手を置き添えて、指の位置を直しそれを鍵《キー》の上に広げてやる時、彼女は気が遠くなるような心地がした。彼女は彼の前でひき損じはすまいかとびくびくしていた。しかし、病気になるほどつとめても、従姉《いとこ》にじれったがった叫び声をたてさせるほどつとめても、クリストフがそばにいる間はいつもひき損じてばかりいた。息もろくにできないし、指は木片のように堅くなったり、綿のように力なくなったりした。音符にまごついたり、アクセントを逆にしたりした。クリストフは彼女をしかり飛ばして、むっとして立ち去った。すると彼女は死にたいほどつらかった。
 彼は彼女になんらの注意をも払っていなかった。彼はただコレットにばかり心を向けていた。グラチアは従姉とクリストフとの親交をうらやんだ。しかし、それがたとい苦しいことだったとはいえ、彼女の善良な小さな心は、コレットとクリストフとのためにそれを祝していた。彼女は自分よりコレットの方がずっとすぐれてると考えていたので、コレットがすべての好意を一人で占めるのは当然だと思っていた。――彼女が従姉と対抗する自分の心を感ずるのは、従姉とクリストフといずれかを選ばなければならない時にばかりであった。彼女は小さな女らしい直覚によって、コレットの嬌態《きょうたい》とレヴィー・クールが彼女に寄せてる執拗《しつよう》な追従《ついしょう》とをクリストフが苦しんでるのを、よく見て取った。彼女は本能的にレヴィー・クールを好んでいなかったが、クリストフが彼をきらってると知るや否や、同じく彼をきらった。コレットがどうして彼をクリストフの競争者にさして喜んでるかを、彼女は理解できなかった。彼女はひそかにコレットをきびしく批判し始めた。そしてコレットの小さな虚偽を多少発見して、にわかに態度を変えた。コレットはそれに気づいた。しかし原因は察することができなかった。彼女はそれを小娘の移り気のせいだとしたかった。しかしただ確実なことは、自分がグラチアにたいして権力を失ったということだった。つまらない一事がそれを証明した。ある夕方、二人で庭を散歩していると、ちょっと村雨が降りだしたので、コレットは追従《ついし
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