心をした。しかしそんなことは平気だ。新しい表現が生ずるのだから。人体においても器官が欲求を生むと言われてるように、表現は常に思想を生むにいたるものである。要は表現が新しければよいのである。いかなる代価を払っても新奇を求めることだ! 彼らは「すでに言われたこと」にたいして病的な恐怖をいだいていた。最もひどい者になるとそのために身体不随に陥っていた。彼らはいつも、小心翼々として自分を監視することにつとめ、前に書いたものを塗抹《とまつ》しようとつとめ、「おや、これは前にどこで読んだのかしら……」とみずから尋ねようとばかりしてるらしかった。他人の楽句をつぎ合わして時間を過ごすような音楽家が、世には――ことにドイツには――かなりある。ところがフランスの音楽家らの努力は、自分の各楽句について、すでに他人が用いた旋律《メロディー》の表中にそれがあるかどうかを捜すことであった。自分の鼻をやたらにねじまげて、知ってるいかなる鼻にも似なくなるまで、否まったく鼻だとは見えなくなるまでに、その形を変えてしまうことだった。
 そういうことをもってしても、彼らはクリストフを欺き得なかった。複雑な言葉を身にまとい、超人間的な激昂《げっこう》や管弦楽的な痙攣《けいれん》を装《よそお》い、あるいはまた、半音から常に発して、半ば眠りかけてる騾馬《らば》のように、滑《すべ》っこい坂の縁をすれすれに、幾時間も歩きつづけるような、非有機的な和声《ハーモニー》や執拗《しつよう》な単調《モノトニー》やサラ・ベルナール式の朗詠法などを、彼らは盛んに用いてはいたけれども、それでもクリストフは、グノーやマスネー式にではあるがより不自然に、ひどく粉飾を事としてる、冷たい色|褪《あ》せたちっぽけな魂を、その仮面の下に見て取るのであった。そして彼は、フランス人にたいするグルックの不当な言葉を、いつもみずからくり返した。
「勝手にさしておけば、いつでも俗謡にもどってゆきたがる。」
 ただ彼らは、その俗謡を高尚ならしめようとつとめていた。彼らは俗歌を取り上げて、ソルボンヌ大学の論文みたいに堂々たる交響曲《シンフォニー》の主題としていた。それは当時の大機運だった。あらゆる種類のまたあらゆる国の俗歌が、各自に役目を帯びさせられていた。――彼らはそういうものをもって、第九交響曲[#「第九交響曲」に傍点]やフランクの四重奏曲[#「四重
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