《れいり》なユダヤ人どもから、ずっと多く取り巻かれていた。たえず部屋の入口で人々が雑踏していた。扉《とびら》は半開きのままで、眼の鋭い重々しい顔つきの連中が出入りしていた。彼らは激しい調子でくだらないことを言っていた。コリーヌはもとより彼らとふざけていた。そのあとで、わざとらしい唆《そそ》るような調子をそのまま変えないで、クリストフと話をした。彼はそれにいらだった。また眼前で化粧《けしょう》にとりかかった彼女の平気な不貞さにも、少しの喜びをも感じなかった。腕や喉《のど》や顔に塗られる脂粉に、深い嫌悪《けんお》を覚えた。芝居がすむとすぐに彼は、彼女に会わずに帰りかけようとした。けれども、閉場後招かれていた夜食の宴に臨むことができないのを詫《わ》びながら、彼女に別れを告げると、彼女がいかにも可憐《かれん》な心残りの様子を示したので、彼は決心を押し通すことができなかった。彼女は汽車の時間表を取り寄せて、まだ十分一時間くらいはいっしょにいられる――いっしょにいなければいけないということを、証明してやった。そう説服されるのはもとより彼の望むところだった。そして彼は夜食の宴に列した。そこでしゃべり散らされてるつまらない事柄にたいする倦怠《けんたい》や、コリーヌが手当たりしだいの人に浴びせかけてる揶揄《やゆ》にたいする憤懣《ふんまん》も、彼はあまり多く示さないでいられた。そんなことを彼女に恨むわけにはゆかなかった。彼女はとにかくしたたかな娘で、道徳心もなく、怠惰で、肉感的で、快楽を好み、くだらない愛嬌《あいきょう》をふりまいてばかりいたが、しかし同時に、いかにも公明であり、いかにも善良であって、そのあらゆる欠点も自然で健やかなために、笑って済まさざるを得ないし、ほとんど愛せざるを得なかったのである。しゃべりつづけてる彼女の正面にすわって、クリストフは、イタリー式の微笑――温和さと機敏さと貪食《どんしょく》的な重々しさとのこもった微笑をたたえてる、その元気な顔、輝いてる美しい眼、ふくらみ加減の顎《あご》、などをながめていた。彼はかつてそれほどはっきり彼女を見たことがなかった。ある特徴が彼にアーダを思い起こさした。身振り、眼つき、多少露骨で肉感的な狡猾《こうかつ》さ――すなわち永遠の女性的なところが。しかし彼女のうちに彼が愛してるものは、南欧の性質であった。南欧の寛濶《かんかつ》な性質は、その天分を少しも惜しむところなく発揮し、客間的な美や書籍上の明知をこしらえることには興味をもたないが、しかし心身ともに日の光に花を開くべきなごやかな人物をこしらえて喜ぶのである。――彼が帰りかけると、彼女は食卓を離れ、他人をぬきにして別れを告げた。二人はまた抱擁し合い、手紙の往復と再会との約束をくり返した。
彼は最終の列車に乗って帰途についた。中間のある駅で、反対の方から来た列車が待っていた。ちょうど自分の正面に止まってる車室――三等車の中に、クリストフは、ハムレット[#「ハムレット」に傍点]の芝居でいっしょになったあの若いフランスの女を認めた。彼女の方でもクリストフの姿を見て、見覚えていた。二人ともびっくりした。黙って会釈をしたが、それ以上顔を見合わしかねて身動きもしなかった。けれどもクリストフは、彼女が小さな旅行帽子をかぶって古い鞄《かばん》をそばに置いてるのを、一目で見て取ったのだった。それでも、彼女が国を去ろうとしてるのだとは思いつかなかった。ただ数日の旅だろうと考えた。彼は彼女に話しかけてよいかどうかわからなかった。彼は躊躇《ちゅうちょ》した。言いたいことを頭の中で用意した。そして彼女に言葉をかけるために、車室の窓を開《あ》けようとすると、発車の笛が鳴った。彼は話すことをあきらめた。列車が動き出すまでに数秒過ぎた。二人はまともに顔を見合わした。どちらも自分の車室の中で、車窓に顔をくっつけ、あたりに立ちこめてる闇《やみ》を通して、たがいの眼の中をじっとのぞき込んだ。二つの窓が間を隔てていた。両方から腕を差し出したら、手先は届くかもしれなかった。すぐそばだった。またごく遠かった。列車は重々しく動き出した。たがいに別れる今となっては、彼女はもう臆《おく》しもしないで、彼をながめつづけた。二人はじっと相手の顔に見入ったまま、最後に挨拶《あいさつ》をかわすことさえも考えなかった。彼女は徐々に遠くなった。彼の眼から彼女は消えていった。彼女を乗せてる列車は暗夜の中に投じた。二人は二つの彷徨《さまよ》える世界のように、無限の空間の中で一瞬間をそばで過ごした、そしておそらく永遠に、無限の空間の中にたがいに遠ざかってしまった。
彼女の姿が見えなくなると、彼はその未知の眼差《まなざし》から心の中にうがたれた空虚を感じた。彼にはその理由がわからなかった。しかし空虚は存していた。半ば眼瞼《まぶた》を閉じ、うとうとしながら、車室の片隅《かたすみ》によりかかって、彼は自分の眼の上に彼女の眼の接触を感じていた。そしてそれをなおよく感ずるために、あらゆる他の考えは沈黙してしまった。窓ガラスの外側で羽ばたきしてる昆虫《こんちゅう》のように、コリーヌの面影が彼の心の外で飛び回っていたが、彼はそれを心の中にはいらせなかった。
汽車が向こうに着いて車室から出で、夜のさわやかな空気を吸い寝静まった街路を歩いて、ようやくはっきりした気持になった時、彼はまたコリーヌの面影を見出した。彼女のやさしい様子や卑しい媚《こ》びを思い出すにつれて、喜びといらだちとの交った気持で、その可憐な女優のことを考えては微笑《ほほえ》んだ。
「しようのないフランス人だ!」と彼は低い笑いとともにつぶやきながら、そばに眠っている母が眼を覚《さ》まさないように、そっと着物をぬぎかけた。
すると先夜|桟敷《ボックス》の中で聞いた一語が、ふと頭に浮かんできた。
「そうでない者もいます。」
彼は初めてフランスに接触してから、その二重性質の謎《なぞ》をかけられた。しかしあらゆるドイツ人と同じく、彼は謎を解こうとも思わなかった。そして車室の若い女のことを考えながら、平気でくり返した。
「あの女はフランス人らしくない。」
あたかも、いかなるものがフランス的であり、いかなるものがフランス的でないか、それを説明するのはドイツ人の役目ででもあるかのように。
フランス人であろうとあるまいと、彼女は彼の心を占めていた。彼は夜中に、切ない気持で眼を覚ました。あの若い女のそばに腰掛に置かれていた鞄《かばん》を、思い出したのだった。そして突然、彼女はまったく立ち去ってしまったのだという考えが頭に浮かんだ。実を言えば、その考えは最初から彼に起こるべきだったが、彼は思いつかなかったのである。彼はひそかな悲しみを感じた。彼は寝床の中で肩をそびやかした。
「それが俺《おれ》になんの関《かか》わりがあろう。」と彼は考えた。「俺の知ったことではない。」
彼はまた眠りに入った。
しかし、翌日彼が外に出て最初に出会ったのは、マンハイムだった。マンハイムは彼を「ブリューヘル」と呼び、フランス全体を征服するつもりかと尋ねた。そして彼はこの生きた新聞から、あの桟敷《ボックス》の一件が大成功で、マンハイムの期待以上だったということを、聞き知った。
「君は実に偉い!」とマンハイムは叫んだ。「僕なんか比べものにもなりゃしない。」
「僕がどうしたというんだい!」とクリストフは言った。
「君には感服だ!」とマンハイムは言った。「僕はうらやましいよ。桟敷を奪ってグリューネバウムの奴《やつ》らに鼻をあかしながら、その家のフランス語の家庭教師を代わりに招待するなんて……いや、花輪でもささげたいくらいだ。僕には考えもつかなかった。」
「グリューネバウムの家の家庭教師だったのかい?」とクリストフは茫然《ぼうぜん》として言った。
「そうだ。知らないふりをするがいいよ、罪のないふうをするがいいよ。僕もそれを勧めるね。……親父《おやじ》はもう心を和らげまい。グリューネバウムたちはたいへん怒ってる。……気長い話じゃないんだ。女を追っ払っちゃったよ。」
「なに、」とクリストフは叫んだ、「追い出したって!……僕のために追い出したのかい?」
「君は知らないのか。」とマンハイムは言った。「あの女は君に言わなかったのか。」
クリストフは心が暗くなった。
「気をもむには及ばないよ、君、」とマンハイムは言った、「大したことじゃないからね。それに、どうせそうなるにきまってるよ、いつかグリューネバウムたちに知られたら……。」
「何を?」とクリストフは叫んだ、「何を知られるんだい。」
「君の情婦だということをさ。」
「僕はあの女を知りもしないよ。名前さえ知らないんだ。」
マンハイムは微笑した。その意味はこうだった。
「君は僕を間抜けだと思ってるんだね。」
クリストフは腹をたてた。自分の断言することを信じてくれとマンハイムに迫った。マンハイムは言った。
「それではなおさらおかしな話だね。」
クリストフはいきりたって、グリューネバウムたちに会いに行き、事実を物語り、あの女のあかしをたてる、と言い出した。マンハイムはそれを諌《いさ》めた。
「ねえ君、」と彼は言った、「君がどんなに説きたてても、反対のことをますます信じさせるばかりじゃないか。それにもう手後《ておく》れだよ。今時分あの女は遠くに行ってるだろう。」
クリストフは悲痛な気持になって、その若いフランス婦人の行くえを捜そうとつとめた。彼女に手紙を書いて許しを乞《こ》いたかった。しかしだれも彼女のことをまったく知らなかった。グリューネバウム家の人たちに尋ねたが、ただ追い返されてしまった。彼ら自身も彼女がどこへ行ったか知らなかった、そして平気でいた。クリストフは、悪いことをしたという考えに悩まされた。それは絶え間ない苛責《かしゃく》だった。なおそれには、消え去った彼女の眼から彼の上へ静かに輝き渡る神秘な誘惑が、つけ加わっていた。その誘惑と苛責とは、新しい日月と新しい考えとの波に覆《おお》われて、消えてゆくようにも思われた。しかし底の方に人知れず残存していた。クリストフは彼女を自分の犠牲と呼んで、少しも忘れなかった。も一度めぐり会おうとみずから誓った。その再会がいかに望み少ないかはよくわかっていた。しかもかならず再会することができると信じていた。
コリーヌの方は、彼が書き送る手紙に少しも返事をくれなかった。しかし三か月後に、彼がもう何にも待っていない時に、四十語の電報が届いた。その中で彼女は、うれしげなつまらないことを言い散らし、彼に親しげなかわいい言葉をかけ、「相変わらず愛し合ってるのね」と尋ねていた。それからなんの便りもなくて一年ばかり過ぎた後、子供らしい曲がりくねった大きな字体で、しかも貴婦人らしく見せかけようとつとめながら書きなぐった、一片の手紙――かわいいおどけた数語――が来た。そして、それきりだった。彼女は彼を忘れてはいなかった。しかし彼のことを考える隙《ひま》がなかった。
コリーヌの魅力にまだとらえられており、彼女と話し合った考えで頭がいっぱいになっていて、クリストフは、彼女が若干の歌曲を歌いながら演ずるはずの戯曲のために――一種の詩的|插楽劇《メロドラマ》のために、音楽を書こうと空想した。この種の芸術は、かつてドイツでもてはやされ、モーツァルトから熱心に鑑賞され、ベートーヴェンやウェーバーやメンデルスゾーンやシューマンやまたあらゆる古典的楽匠らによって、実際試みられたものであるが、劇と音楽の決定的様式を実現したと自称するワグナー派の勝利以来、すっかり廃《すた》れたのであった。厚顔な衒学《げんがく》的なワグナー派は、新しい插楽劇《メロドラマ》をすべて排斥するだけで満足せず、古い插楽劇《メロドラマ》を飾りたてようとつとめた。彼らは話される対話の痕跡《こんせき》を歌劇《オペラ》から注意深く消し去って、モーツァルトやベートーヴェンやウェーバーらの作品のために、自己流の叙唱《レシタチーヴ》を書いた。それらの傑作の上にお
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