少しもわからなかった。彼女はまたフランスの俗謡を一つ歌った。それから回教徒にならって、祈祷《きとう》時間を告げる真似をした、――薄暮になりかかっていた。二人は会堂の中に降りていった。濃い闇影《あんえい》が大きな壁にはい上がっていた。壁の上方には窓ガラスの怪しい眸《ひとみ》が光っていた。クリストフがふと見ると、ハムレット[#「ハムレット」に傍点]見物に桟敷を共にしたあの若い女が、片側の礼拝所にひざまずいていた。彼女は祈祷に我れを忘れて、彼の姿に気づかなかった。悲しい切ない表情をしていた。彼はそれに心打たれた。なんとか言葉をかけたかった。少なくとも挨拶《あいさつ》だけなりとしたかった。しかしコリーヌは彼を急《せ》きたてて引っ張っていった。
二人はやがて別れた。ドイツの習慣として開演の時間が早いので、彼女はその準備をしなければならなかった。彼は家に帰った。するとほとんどすぐに、使の者がコリーヌの手紙をもって来た。
[#ここから2字下げ]
ありがたい。ゼザベルが病気。芝居お休み。稽古《けいこ》おやめ。……ねえ、いらっしゃい。いっしょに御飯を食べましょう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]親しいコリネットより
[#ここから2字下げ]
それから、音楽をたくさんもってきてちょうだい!
[#ここで字下げ終わり]
彼はちょっと意味がわからなかった。ようやくわかると、コリーヌと同様にうれしかった。そしてすぐ旅館へ出かけた。仲間の者が皆いっしょに食事をしてやすまいかと気づかわれた。しかしだれの姿も見えなかった。コリーヌまでもいなかった。でもやがて、彼女の騒々しい快活な声が、奥の方に聞こえた。彼は彼女を捜し始めた。料理場でようやく見つかった。彼女は手製の料理を、非常な匂《にお》いが近所にあふれて石をも眼覚《めざ》めさすほどの南欧式な料理を、一|皿《さら》こしらえようと考えたのだった。彼女は旅館のでっぷり太った主婦と仲がよかった。そして二人でいっしょに、ドイツ語ともフランス語とも黒人語ともつかない、なんとも言いようのないたいへんな言葉をしゃべりちらしていた。たがいに料理の味をみながら大笑いをしていた。クリストフがやって来たので、なお騒ぎが募った。彼女らは彼を追い出そうとした。しかし彼は逆《さから》って、その有名な料理を味わうことができた。彼はちょっと顔をしかめた。それを見て彼女は、彼を野蛮なチュートン人だとし、彼のために骨折るのはまったく無駄なことだと言った。
二人はいっしょに小さな客間へ上がっていった。そこには食卓が用意されていた。彼とコリーヌとの食器があるばかりだった。仲間の人たちはどこへ行ったのかと、彼は尋ねないではいなかった。コリーヌは平気な身振りをした。
「知らないわ。」
「いっしょに食事をしないんですか。」
「ええちっとも。芝居で顔を合わせるだけでたくさんよ。……ほんとに、食卓でまでいっしょにいなけりゃならないとしたら!……」
それはドイツの習慣とはまるで異なっていた。彼は驚くとともに面白く思った。
「あなたたちは、」と彼は言った、「社交的な国民だと思っていたが。」
「そんなら、」と彼女は言った、「私は社交的でないんでしょうか。」
「社交的というのは、社会のうちに生活するということです。こちらでは、たがいに顔を合わせなければなりません。男も女も子供も、生まれた日から死ぬ日まで、それぞれ社会の一部をなしている。すべては社会のうちでなされる。人は社会とともに食ったり歌ったり考えたりする。社会が嚔《くしゃみ》をすれば、人もそれとともに嚔をする。一杯のビールを飲むのにも、社会とともに飲むんです。」
「それは面白いに違いないわ。」と彼女は言った。「同じ杯で飲んだらいいわ。」
「親密でしょう。」
「親密なんてそんな! 私は好きな人となら兄弟になってもいいし、そうでない人とはごめんだわ……。おう嫌《いや》だ、そんなのは、社会じゃなくて、蟻《あり》の巣よ。」
「僕もあなたに同意です。だからこちらで僕がどんな気持かわかるでしょう。」
「では私の国へいらっしゃいよ。」
それは彼の望むところだった。彼はパリーやフランス人のことについて尋ねた。彼女は種々聞かしてやった。それは完全に正確なものではなかった。南欧婦人の大袈裟《おおげさ》な自慢癖のうえに、相手を幻惑しようという本能的な欲求が加わっていた。彼女の言うところによれば、パリーではだれも皆自由だった。そしてパリーでは皆|怜悧《れいり》なので、各人が自由を利用し、一人としてそれを濫用する者がなかった。各自に好きなことをし、勝手に考え信じ愛し、もしくは愛しなかった。だれもそれに言い分はなかった。そこでは、他人の信仰に立ち入る者はいないし、他人の良心を探偵《たんてい》する者はいないし、他人の思想を抑制する者はいなかった。そこでは、政治家が文芸美術に干渉することがなく、情誼《じょうぎ》や恩顧で勲章や地位や金銭を分かつことがなかった。そこでは、会の名によって評判や成功が左右されることなく、新聞雑誌記者が買収されることなく、文学者が勝手に自惚《うぬぼ》れ返ることはなかった。そこでは、批評界が無名の秀才を圧迫することもなく、知名の士におもねることもなかった。そこでは、成功が、いかに価値ある成功でもが、それを得る手段をすべて正当化することなく、また民衆の崇拝を左右することがなかった。人気は穏和で丁重で親切だった。交誼《こうぎ》はいかにも滑《なめ》らかだった。決して人の悪口が聞かれなかった。人はたがいに助け合っていた。いかに新参な者でも価値さえあれば、かならず喜んで迎えられ、平らかな前途が見出されるのだった。美《うる》わしいものにたいする純なる愛情が、それら任侠《にんきょう》公平なフランス人の魂に満ちていた。そして彼らの唯一の滑稽《こっけい》な点は、その理想主義にあるのであって、そのために彼らは、世に知られた敏才をもってるにもかかわらず、他の国民から欺かれることがあるのだった。
クリストフは呆気《あっけ》に取られて聞いていた。実際、感嘆すべき点が多かった。コリーヌ自身も、自分の言葉を聞きながら感嘆していた。過去の生活の困難だったのについて前日クリストフに話したことなんかは、すっかり忘れてしまっていた。彼も同様にそんなことは思い出してもいなかった。
けれどもコリーヌは、自分の祖国をドイツ人に愛させようと努めてるばかりではなかった。自分自身をも愛させようと望んでいた。親昵《しんじつ》のない一晩は、彼女にとってはしかつめらしくやや滑稽《こっけい》に思われたに違いない。彼女はクリストフにふざけないではおかなかった。しかしそれは徒労だった。彼はさらに気づかなかった。彼は親昵のなんたるやを知らなかった。彼は愛するか愛しないかであった。愛しない時には、恋愛のことなんかは頭にも浮かべなかった。彼はコリーヌにたいして、強い友情をいだいていた。彼にとってはいかにも珍しい南欧人の性質、そのやさしい愛嬌《あいきょう》、その晴れ晴れとした気分、その活発自由な知力に、彼は魅せられていた。そこにはもちろん、愛するためにあり余るほどの理由があった。しかし「人の心の風は己《おの》がままに吹く。」彼の心の風はその方へ吹かなかった。そして、恋愛がないのに恋愛の真似《まね》をすることは、彼のかつて思いもつかないことだった。
コリーヌは彼の冷たい様子を面白がっていた。もって来た種々の楽曲を彼がひいてる間、彼女は彼のそばにピアノの前にすわって、彼の首に裸の腕をまきつけ、音楽をよく聞くために鍵盤《キイ》の方へかがみ込んで、自分の頬をほとんど彼の頬《ほお》にくっつけるほどにした。彼は彼女の睫毛《まつげ》が触れるのを感じ、また、その嘲るような眸《ひとみ》の片隅や、愛くるしい鼻つきや、もち上がった唇《くちびる》の細かい産毛《うぶげ》などを、自分のすぐそばに見た。その唇は微笑《ほほえ》みながら待っていた――彼女は待った。クリストフにはその誘いがわからなかった。コリーヌは自分の演奏を邪魔してる、というのが彼の考えのすべてだった。機械的に彼は身を引いて、椅子《いす》を横の方へずらした。そして間もなく、コリーヌの方へ振り向いて話しかけようとすると、彼女の笑いたくてたまらないような様子が眼についた。その頬の笑靨《えくぼ》は笑っていた。彼女は唇をきっと結んで、放笑《ふきだ》すまいと一生懸命に我慢してるらしかった。
「どうしたんです?」と彼は驚いて言った。
彼女は彼をながめて、にわかに大笑いを始めた。
彼には何にもわからなかった。
「なぜ笑うんです。」と彼は尋ねた。「僕が何かおかしなことを言いましたか。」
彼がしつこく聞けば聞くほど、彼女はますます笑った。笑いやめようとすると、彼の狼狽《ろうばい》した様子を一目見ただけで、さらに激しく笑いだした。立ち上がって、向こうの隅の安楽椅子へ駆けて行き、その羽蒲団《はねぶとん》に顔を埋め、思うまま笑った。その身体全体が笑っていた。彼にもその笑いがうつってきた。彼女の方へやって行き、その背中を軽くつっついた。彼女は心ゆくばかり笑ってから、顔を上げ、涙のたまった眼を拭《ふ》き、彼の方へ両手を差し出した。
「あなたはほんとにいい児《こ》ね。」と彼女は言った。
「特別に悪い児でもありません。」
彼女はなお、こみ上げてくる小さな笑いに身を揺られながら、彼の両手を掘ったまま離さなかった。
「真面目《まじめ》じゃないわね、フランスの女は。」と彼女は言った。
(彼女はフランスー[#「フランスー」に傍点]の女と発音した。)
「僕をからかってるんですね。」と彼は機嫌《きげん》よく言った。
彼女は彼をしみじみとした様子でながめ、強くその両手を振り動かして言った。
「お友だちにね。」
「お友だち!」と彼も手を振り返しながら言った。
「このコリネットがここから発《た》ってしまっても、忘れないでくださるわね。このフランスの女が真面目でないったって、それを恨みはなさらないわね。」
「そしてあなたの方でも、この野蛮なチュートン人がいくら馬鹿だって、それを恨みはしないでしょうね。」
「それだからかえって好きなのよ。……パリーへも会いに来てくださるわね。」
「ええきっと。……そして私に手紙をくださるでしょうね。」
「誓うわ。……あなたもそれを誓ってちょうだいよ。」
「誓います。」
「いいえ。そうじゃないのよ。手を出さなくちゃいけないわ。」
彼女はオレースの誓いを真似た。また彼女は、自分のために一篇の曲を、插楽劇《メロドラマ》を、書くことを彼に約束さした。彼女はそのフランス訳をパリーで演ずるつもりだった。彼女は仲間とともに翌日出発することになっていた。彼らが一興行するフランクフルトまで、彼は翌々日会いに行くと約束した。二人はなおしばらくいっしょにしゃべった。彼女はクリストフに、ほとんど半身裸体の写真を一枚贈った。彼らは兄妹のように抱擁しながら、快活に別れた。そして実際コリーヌは、クリストフが自分をよく愛してはいるが決して恋してはいないことを、それと見て取ってからは、仲のいい友だちとして恋愛なしに、自分もまた彼を愛しだしたのであった。
そのために二人の眠りは、どちらも妨げられなかった。彼は翌日、別れの言葉を告げることができなかった。彼はその時、ある音楽会の下稽古《したげいこ》につかまっていたからである。しかしその次の日に、彼は都合をつけて約束どおりフランクフルトへ行った。汽車で二、三時間ばかりだった。コリーヌはクリストフの約束をほとんど信じていなかった。しかし彼の方はきわめて真面目《まじめ》だった。そして、開演の時間に彼はそこへ着いていた。幕間《まくあい》に彼は行って、彼女の支度《したく》部屋の扉《とびら》をたたいた。彼女は喜ばしい驚きの叫び声をたてて、彼の首に飛びついてきた。彼が来てくれたことを心からありがたがっていた。ただクリストフにとっては不幸にも、彼女はこの町では、彼女の現在の美と将来の成功とを鑑識し得る富裕|怜悧
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