いながら答えた。
「皮肉のつもりだね。」
 クリストフは安堵《あんど》した。
「ああ!」と彼は言った、「僕の論説があいつの気に入ったんじゃないかと心配していた。」
「あいつは怒《おこ》ってるんだよ、」とエーレンフェルトが言った、「しかしその様子を見せたくないんだ。偉《えら》そうなふうをして嘲《あざけ》っているんだ。」
「嘲ってる?……馬鹿め!」とクリストフはまた激昂《げっこう》して言った。「も一度書いてやる。笑ってる奴《やつ》が笑われるんだ!」
「いや、そうじゃない。」とワルトハウスは心配そうに言った。「僕はあいつが嘲ってるんだとは思わない。それは謙譲の心でやったことだ。あいつは善良なキリスト教徒だ。一方の頬《ほお》を打たれたから、片方の頬をも差し出したんだ。」
「なお結構だ。」とクリストフは言った。「卑怯《ひきょう》者めが! 臀《しり》をなぐられたけりゃなぐってやる。」
 ワルトハウスは少しなだめようとした。しかし他の者は皆笑っていた。
「うっちゃっとけよ……。」とマンハイムは言った。
「結局のところ……」とワルトハウスはにわかに心丈夫になって言った、「五十歩百歩だ!……」
 クリストフは帰っていった。同人らは狂気のように笑い踊った。それが少し静まると、ワルトハウスはマンハイムに言った。
「それにしても、危ないところだった。……ほんとに気をつけてくれよ。君のおかげで皆がとんだ目に会うかもしれないから。」
「なあに!」とマンハイムは言った。「それにはまだ間があるよ。それにまた、僕はあの男に味方をこしらえてやってるんだからね。」
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     二 埋没


 ドイツの芸術を改革せんがために、クリストフが右のような経験を積んでる時、一団のフランス俳優がこの町を通りかかった。それはむしろ一群という方が適当であって、例のとおり、どこから狩り集めて来られたかわからない怪しい者らや、ただ役をふってさえもらえればどんな待遇をも喜んでいる無名の青年俳優らなどの、寄り集まりであった。皆いっしょにかたまって、一人の名高い老女優の馬車に付随していた。この老女優は、ドイツ内を巡業して歩いて、その道すがらこの小都市に立ち寄り、三回の興行を催したのだった。
 ワルトハウスの雑誌では、そのことで大騒ぎをした。マンハイムとその友人らは、パリーの文学的および社交的方面に通暁《つうぎょう》していた、もしくは通暁してるふうを見せかけていた。聞きかじった巷説《こうせつ》やまたは多少了解してる事柄を、盛んにくり返していた。彼らはドイツ内にてフランス精神を代表していた。そのためにクリストフは、なおいっそうフランス精神を知りたくなった。マンハイムはうるさいほど、パリーの賛辞を彼に述べたてた。マンハイムは幾度もパリーに行ったことがあった。そこには血縁の者もいた――ヨーロッパの各国に血縁の者がいた。そして至る所で彼らは、その国の国民性と品位とを獲得していた。このアブラハムの民族のうちには、イギリスの従男爵、ベルギーの上院議員、フランスの内閣員、ドイツ帝国議会の代議士、法王付属の伯爵などがあった。そして皆よく団結して、自分らが出て来た共通の始祖にたいして尊敬深くはあったが、それでも心から、イギリス人であり、ベルギー人であり、フランス人であり、ドイツ人であり、または法王党であった。なぜなら、彼らは驕慢《きょうまん》な心から、自分の順応した国が世界第一の国であることを疑わなかったから。ところがマンハイムのみは、それと反対であって、自分の属しない他の国々の方がいいと言って面白がっていた。かくて彼はしばしばパリーのことを話し、しかも心酔の調子で話した。しかし彼はパリー人を称賛するのに、狂気じみた放逸な騒々しい人間であると言い、遊楽や革命にばかり時間をつぶして、決して真面目《まじめ》になることがないと言った。それでクリストフは、「ヴォージュ山の彼方《かなた》のビザンチン式な頽廃的《デカダン》な共和国」にあまり心をひかれなかった。彼がすなおにも想像していたパリーは、ドイツ芸術に関する叢書の一冊として最近世に出た書物の巻頭で見た、ある素朴《そぼく》な版画の示しているパリーと、大差ないものであった。その第一図に、都会の家並みの上にうずくまってるノートル・ダーム寺院の鬼像があって、次の銘がついていた。

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飽くなき吸血鬼、永遠の豪奢《ごうしゃ》は、
大都市の上にてその餌食《えじき》を貪《むさぼ》る。
[#ここで字下げ終わり]

 善良なドイツ人として彼は、遊蕩《ゆうとう》な異国人とその文学とを軽蔑《けいべつ》していた。その文学について知ってるところはただ、仔鷲や気儘夫人[#「仔鷲や気儘夫人」に傍点]などの放逸な滑稽《こっけい》劇と洒亭の小唄《こうた》とにすぎなかった。だから、芸術になんらの感興をも見出し得そうにない人々が、騒々しく場席係りへ行って急いで名前を記入するような、この小都市の流行好みの風潮を見ると、彼はその名高い旅役者にたいして、軽蔑《けいべつ》的な無関心さを装《よそお》わずにはいられなかった。それを聞くために一歩も踏み出すものかと言い張った。そして座席が非常に高価で、それだけの金を払う手段がなかっただけに、彼には自分の言葉を守《まも》るのがいっそうたやすかった。
 フランス俳優一団がドイツへもってきた番組のうちには、二、三の古典劇がはいっていた。しかしその大部分は、とくに輸出向きのパリー物たる馬鹿げた種類だった。なぜなら、凡庸《ぼんよう》くらい万国的なものはないから。クリストフは、その旅回りの女優の第一の出し物となってるトスカ[#「トスカ」に傍点]を知っていた。彼は前に翻訳のトスカ[#「トスカ」に傍点]を聞いたことがあった。その時には、ライン地方の小劇団がフランスの作品にたいしてなし得るかぎりの、軽快な優美さで飾ってあった。そして彼は今、友人らが劇場へ出かけてゆくのを見ながら、嘲《あざけ》り気味の笑いを浮かべて、それを二度聞きに行くには及ばないと気楽に考えていた。それでも翌日になると、友人らが昨晩のことを感激的に話すのに、注意深く耳傾けざるを得なかった。今皆が話してる劇の見物を拒みながら、皆の意見に抗弁する権利までも失ったことを、一人憤慨していた。
 予告の第二の出し物は、ハムレット[#「ハムレット」に傍点]のフランス訳ということになっていた。クリストフはかつてシェイクスピヤの作を見る機会を逃がしたことがなかった。シェイクスピヤは彼にとってはベートーヴェンと同等で尽くることなき生命の泉であった、彼がちょうど通って来た雑然たる不安疑惑の時期においては、ハムレット[#「ハムレット」に傍点]はことになつかしいものとなっていた。その魔法的な鏡の中に自分の姿をふたたび見出しはすまいかと気づかいながらも、それから魅せられていた。座席を取りに行きたくてたまらないことをみずから打ち消しながら、芝居の広告《びら》のまわりを歩き回った。しかし彼はきわめて強情だったので、いったん友人らに言明した以上は、それを取り消したくなかった。そしてその晩も前晩と同じく、自分の家に留まってるつもりで帰りかけたが、ちょうどその時偶然にも、マンハイムとばったり出会った。
 マンハイムは彼の腕をとらえた。そして、父の妹に当たる老いぼれ婆《ばあ》さんが、おおぜいの家族を連れて不意にやって来たことや、それを迎えるために皆家にいなければならなかったことなどを、腹だたしい様子でしかも嘲《あざけ》りの調子を失わないで語ってきかした。彼は逃げ出そうとしたのだった。しかし父は、家庭上の礼儀と年長者に払うべき尊敬との問題については、嘲弄《ちょうろう》を許さなかった。それにちょうど彼は、父をうまく取りなして金を引き出す必要があったので、譲歩して芝居をあきらめない訳にはゆかなかった。
「君たちは切符をもってたのかい。」とクリストフは尋ねた。
「そうさ、上等の桟敷《ボックス》だ。おまけに、僕はそれを他《ほか》へ届けなけりゃならないんだ――(このまますぐに行くところだ)――親父《おやじ》の仲間でグリューネバウムという奴《やつ》にさ。妻君と馬鹿娘とを連れて行っていただきたいというんでね。愉快な話さ。……僕はせめて奴らに何か面白くないことを言ってやりたいと思ってるんだ。だがそんなことには奴らは平気だ、切符さえもって来てもらえれば――切符が紙幣《さつ》ならなお喜ぶだろうがね。」
 彼はクリストフをながめながら、口を開いたままにわかに言いやめた。
「ああ……そうだ……ちょうどいい!」
 彼は低く言った。
「クリストフ、君は芝居へ行くのかい。」
「いや。」
「諾《うん》と言えよ。芝居へ行ってくれ。僕の頼みだ。厭《いや》とは言えまい。」
 クリストフは訳がわからなかった。
「だが切符がないんだ。」
「ここにある!」とマンハイムは勢いよく言いながら、彼の手に切符を無理に握らしてしまった。
「君はめちゃだ。」とクリストフは言った。「そしてお父《とう》さんの言いつけは?」
 マンハイムは笑いこけた。
「怒《おこ》るだろうよ。」と彼は言った。
 彼は笑い涙を拭《ふ》いて、そして結論した。
「明日《あした》の朝起きぬけに、まだ何にも知らないうちに、僕からもち出してやるんだ。」
「僕は承知できない、」とクリストフは言った、「君のお父さんに不愉快なことだと知っては。」
「君が知る必要はない、君の知ったことじゃない、君に関係あることじゃないんだ。」
 クリストフは切符を開いた。
「そして四人分の桟敷《ボックス》をどうするんだい。」
「いいようにするさ。よかったらその奥で眠っても踊っても構わない。女を連れてゆくさ。幾人かあるだろう。入用なら貸してやってもいいよ。」
 クリストフは切符をマンハイムに差し出した。
「いや、どうしてもいやだ。取ってくれ。」
「取るもんか。」とマンハイムは数歩|退《さが》りながら言った。「厭なら無理に行ってくれとは言わない。だがもうそれは受け取らないよ。火にくべようと、または律義《りちぎ》者の真似《まね》をしてグリューネバウムの家へ届けようと、それは君の勝手だ。もう僕に関係したことじゃない。さよなら。」
 彼は手に切符をもってるクリストフを往来のまん中に置きざりにして、逃げて行ってしまった。
 クリストフは困った。グリューネバウムの家へ切符をもってゆくのが至当であると、はっきり思ってもみた。しかしその考えにはあまり気乗りがしなかった。心を定めかねて家へ帰った。気がついて時計をながめてみると、もう芝居へ行くために着替えるだけの時間しかなかった。いずれにしても切符を無駄《むだ》にするのはあまり馬鹿げていた。母へいっしょに行こうと勧めてみた。しかしルイザは、これから寝る方がいいと言った。彼は出かけた。心の底には子供らしい楽しみがあった。ただ一つ不満なのは、その楽しみを一人きりで味わうことだった。桟敷を取り上げてやったグリューネバウム一家や、マンハイムの父にたいしては、なんらの苛責《かしゃく》をも感じなかったけれど、自分と桟敷を共にし得るかもしれない人々にたいして、一種の苛責を感じた。自分のような若い者にとっては、それがどんなに喜ばしいことであるかを考えると、その喜びを分かたないのがつらかった。頭の中であれこれと物色してみたが、切符をやるような相手が見つからなかった。そのうえもう遅《おそ》くなっていて、急がなければならなかった。
 劇場へはいる時に、彼は閉《し》め切られてる札売場のそばを通った。座席係りの方にはもう一席も残っていないことが、掲示に示してあった。残念そうに帰ってゆく人々のうちに、彼は一人の若い女を認めた。彼女はまだ思い切って出て行くことができないで、はいって行く人々をうらやましそうにながめていた。ごく簡素な黒服をまとい、さほど背が高くもなく、細そりした顔立ちで、しとやかな様子だった。きれいであるか醜いかは気づく隙《ひま》がなかった。彼は彼女の前を通り越した。がちょっと立ち止まり、ふり向いて、考
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