真の解決ではなくて、曖昧《あいまい》な状態をいつまでも長引かせる特権を含む解決を、好むからであった。次には、説得によらずとも少なくとも倦怠《けんたい》によって、彼を思うとおりにしてしまいたいと、人々はやはり望んでいたからである。
 クリストフはその余裕を彼らに与えなかった。彼は、一人の男が自分に反感をいだきながらそうだと自認するのを欲しないで、自分となお交誼《こうぎ》をつづけるためにしいて幻をかけようとつとめてるのを、はっきり感ずるように思う時には、自分はその男の敵であるということをりっぱに証明してやるまでは、決してやめないのであった。ワグナー協会のある晩餐会で、偽善に包まれた敵意の壁にぶつかった後、彼は理由なしの退会届をラウベルのもとに送った。ラウベルには合点がゆかなかった。マンハイムはクリストフのもとに駆け込み、万事を調停しようと試みた。クリストフは最初の一言をきくや否や、怒鳴りだした。
「いや、いや、断じていやだ。もうあいつらのことを言ってくれるな。僕はあいつらをもう見たくないんだ。……もう我慢できない、まったくできない。……僕は人間が厭《いや》でたまらないんだ。人間の顔を見るのが堪えられないんだ。」
 マンハイムは心から大笑いをしていた。クリストフの激昂《げっこう》を鎮《しず》めようと考えるよりも、むしろその激昂を面白がっていた。
「あいつらがりっぱな者でないことくらいは僕もよく知ってるよ。」と彼は言った。「だがそれは何も今日に始まったことじゃない。で、何か新しいことでも起こったのか。」
「何にも。僕の方でたまらなくなったんだ。……そうだ、笑いたまえ、僕を嘲《あざけ》りたまえ。もちろん、僕は狂人《きちがい》さ。慎重な奴《やつ》らは、健全な理性の法則に従って行動する。だが僕はそうじゃない。衝動によってのみ動く人間なんだ。僕のうちにある電量が蓄積すると、どうしてもそいつが爆発しないではいない。もしそれで怪我《けが》をする者があったら、お気の毒の次第だ。僕にとっても厄介な話さ。僕は社会に生きるようにできてはいない。今後僕は、もう自分だけの者でいたいんだ。」
「それでもまさか、だれの手もかりないで済まそうというんじゃないだろう?」とマンハイムは言った。「君一人きりでは、君の音楽を演奏させることもできやしない。君にだって必要だ、男女の歌手や、管絃楽隊や、管絃楽長や、聴衆や、拍手係や……。」
 クリストフは叫んでいた。
「いや、いや、いや!」
 しかし最後の言葉は彼を躍《おど》りたたした。
「拍手係だって、君は恥ずかしくないのか。」
「雇いのを言うんじゃないよ。――(実を言えば、雇人拍手係こそ、作品の価値を聴衆に示すために、なお見出された唯一の方法ではあるが。)――しかし、一種の拍手係が、適当に訓練された小さな仲間が、いつでも必要なんだ。どの作家も皆それをもっている。それでこそ友だち甲斐《がい》があるというものだ。」
「僕は友だちをほしくない。」
「それじゃ君の作は、口笛を吹かれるばかりだ。」
「僕は口笛を吹かれたいんだ。」
 マンハイムは愉快でたまらなくなった。
「そんな楽しみも長くはつづかないよ。だれも演奏してくれる者がなくなってしまうだろう。」
「なに構うもんか。それじゃ君は、僕が有名な人間になりたがってるとでも思ってるのか。……なるほど僕はこれまで、そういう目的に向かって全力を注いでいた。……まったく無意義だ、狂気|沙汰《ざた》だ、阿呆《あほう》の至りだ。……ちょうど、最も凡俗な高慢心の満足は、光栄の代価たるあらゆる種類の犠牲――不愉快、苦痛、不名誉、汚辱、卑劣、賤《いや》しい譲歩、などを償うものででもあるかのように! ところでもしそういう焦慮が今もなお僕の頭を悩ましてるとしたら、僕はむしろ悪魔にでもさらってゆかれたい。もうそんなことは少しも思っていないんだ。聴衆だの著名だのということには、少しも関《かか》わりたくないんだ。著名ということは、不名誉きわまる賤《いや》しいことだ。僕は一私人でありたいし、自分自身と愛する人々とのために生きたいんだ……。」
「それはそうだ。」とマンハイムは皮肉な様子で言った。「だが仕事は一つなくっちゃいけない。君はなぜ靴《くつ》でもこしらえないのか。」
「ああ僕がもし、他に類のないあのザックスのような靴屋だったら!」とクリストフは叫んだ。「どんなにか僕の生活は愉快に整ってゆくだろう! 一週のうち六日は靴屋をやる――日曜には、ただ親しい者だけで、自分の楽しみにまた数人の友人の楽しみに、音楽をやる。実にいい生活だろう!……馬鹿者どもの判断に供せられるというみごとな喜びのために、自分の時間と労力とをささげてしまうのは、愚の至りではないか。多くの阿呆どもに聞かれたりがやがや言われたり諛《へつら》われたりするよりは、少数のりっぱな人々に愛せられ理解される方が、はるかにましでりっぱではないか。……傲慢《ごうまん》と光栄の欲求との悪魔から、僕はもう引きずり回されはしないぞ。その点は安心したまえ!」
「そうだとも。」とマンハイムは言った。
 しかし彼はこう考えていた。
「一時間もたったらこの男は反対のことを言うだろう。」
 彼は平然と結論した。
「で僕が、ワグナー協会との間を万事調停してやろうじゃないか。」
 クリストフは両腕を上げた。
「そんなことだから、僕は一時間も骨折って、喉《のど》をからしながらいけないと叫んでるんじゃないか!……断わっておくが、僕はもう決してあんな所へ足を踏み入れはしない。いっしょに鳴くためにたがいに寄り集まりたがってる、あのワグナー協会の奴らが、あの組合主義の奴らが、あの羊小屋の奴らが、残らず厭でたまらないんだ。あの羊どもに向かって、僕の代わりに言ってくれたまえ、僕は狼《おおかみ》だと、僕には歯があると、僕は草を食うようにできてる人間じゃないと!」
「よし、よし、言ってやろう。」とマンハイムは言いながら、その昼芝居を面白がって立ち去っていった。彼はこう考えていた。
「この男は狂人だ、縛っておくべき狂人だ……。」
 彼はすぐにその対談を妹に語った。妹は肩をそびやかして、そして言った。
「狂人ですって? あの人は狂人だと思わせたがってるのよ。……お馬鹿さんで、おかしなほど傲慢《ごうまん》な人ですわ……。」

 かかる間にもクリストフは、ワルトハウスの雑誌上で、激しい戦いをつづけていた。それも戦いが面白いからではなかった。批評界全体が彼を非難し、彼の方ではすべてを罵倒《ばとう》し去ろうとしていた。彼は口をつぐむように仕向けられるのでなお頑張《がんば》ったのであって、譲歩の様子を示したくなかったのである。
 ワルトハウスは心配しだした。乱打の最中にあって無難である間は、オリンポスの神のごとき泰然さをもって激戦をながめていた。しかし数週以前から、どの新聞もいっせいに、ワルトハウスの侵すべからざる品位を忘れたかのようだった。そして彼の作者としての自尊心を攻撃し始めた。彼がもしいっそう慧敏《けいびん》であったなら、それらの攻撃の異常な邪悪さのうちに、友人の爪先《つまさき》を認め得たはずである。実際それらの攻撃が起こったのは、エーレンフェルトやゴールデンリンクの陰険な煽動《せんどう》によるのであった。クリストフの筆戦をよさせようと彼に決心させるためには、これ以外に策はないと彼らは見て取ったのである。そして彼らの見解は至当だった。ワルトハウスはただちに、クリストフには困ると公言し始めた。そしてクリストフを支持することをやめた。それ以来雑誌の同人らは皆、クリストフを黙らせようと工夫した。しかし試みに、餌食《えじき》を食いかけてる犬に口輪をはめてみるがいい! 人々が彼に言う言葉は皆、彼をますます刺激するばかりだった。彼は皆を卑怯《ひきょう》者だとし、すべてを――言わなければならないことすべてを、言ってのけると断言した。同人らが自分を追い払うつもりなら、それは彼らの自由だ。彼らも他人と同様に卑劣であることが、町じゅうに知れるばかりだ。しかし自分は、決して自分の方から出て行くことはしない。
 同人らは困却して顔を見合わせながら、マンハイムがこの狂人を連れて来てとんだ厄介を背負い込ましたことを、苦々しく非難した。マンハイムは相変わらず笑いながら、クリストフを制しようと努めた。次の論説からは、クリストフに手加減をさせてみせると誓った。一同はそれを信じなかった。しかしマンハイムがいたずらに高言を払ったのでないことは、事実が証明してくれた。クリストフの次の論説は、礼譲の模範とは言い得ないにしろ、もはやだれにたいしてもなんら無礼な語句を含んではいなかった。マンハイムの手段はきわめて簡単だったのである。一同はなぜもっと早くそれを思い付かなかったかと、あとでみずから驚いたのだった。クリストフは雑誌に書いた自分の文章を、かつて読み返したことがなかった。自分の論説の校正を読むのでさえ、大急ぎでいい加減に目を通すだけだった。アドルフ・マイはこのことについて、刺《とげ》を含んだ穏やかな注意を一度ならず与えたことがあった。一字の誤植も雑誌の名誉を傷つけると言っていた。ところがクリストフは、批評をほんとうの芸術だとは見なしていなかったので、悪評を受ける相手は誤植があっても十分論旨を理解するだろうと、いつも答えていた。マンハイムはこの間の事情を利用したのである。彼はクリストフの意見が正当であると言い、校正のことは校正係の仕事であると言って、自分がその役目を引き受けようと言い出した。クリストフは感謝のあまり恐縮した。しかし一同は口をそろえて、この処置は雑誌にとって時間をはぶくことになるので、結局皆のためになるのだと確言した。それでクリストフは校正をマンハイムに任して、よく直してくれと頼んだ。マンハイムはその頼みにそむかなかった。それは彼にとって一つの遊戯であった。最初は用心して、ただある語法を和らげたり、露骨な形容をところどころ削ったりした。そしてうまくいったのに力を得て、やり方を次第に進めていった。文句や意味を変え始めた。その仕事に彼は真の手腕を示した。文句の大体と独特の筆癖とを保存しながら、クリストフが言おうと思ったところとちょうど反対のことを言わせるのが、その全部の技巧であった。マンハイムはクリストフの論説を変形させるために、自分で論説を書く以上に骨折った。彼は一生のうちにこれほど努力したことはなかった。しかし結果はいかにも愉快だった。これまでクリストフから嘲弄《ちょうろう》され通しであったある音楽家らは、彼が次第に穏和になってついには賛辞を呈するのを見ては、呆気《あっけ》に取られてしまった。雑誌では大喜びだった。マンハイムは刻苦精励の余りに成った原稿を皆に読んできかした。一同はどっと笑った。エーレンフェルトやゴールデンリンクは時々マンハイムに言った。
「気をつけたまえ。あまりやりすぎるぜ。」
「なに大丈夫だ。」とマンハイムは答えた。
 そして彼はますますやりつづけていた。
 クリストフは何にも気づかなかった。彼は雑誌社へやって来、原稿を渡すと、もう少しも気に止めなかった。時とすると、マンハイムをわきに呼ぶこともあった。
「こんどは、あの馬鹿者どもをほんとうにやっつけてやった。少し読んでみたまえ……。」
 マンハイムは読んでみた。
「どうだい、君の考えは?」
「猛烈だね。君、余すところはないよ。」
「あいつらはなんと言うだろうかね?」
「そりゃあ大騒ぎだろうよ。」
 しかし大騒ぎは少しも起こらなかった。それどころかクリストフの周囲では、輝いた顔ばかりが見られた。彼がやっつけた人々は、往来で彼に挨拶《あいさつ》をした。ある時彼は顔をしかめた気懸《きがか》りな様子で、雑誌社にやって来た。そしてテーブルの上に一枚の訪問名刺を投げ出しながら尋ねた。
「これはいったいなんのことだ?」
 それは彼が罵倒《ばとう》したばかりの一音楽家の名刺で、「感謝に堪えず候[#「感謝に堪えず候」に傍点]」と書き入れてあった。
 マンハイムは笑
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