に健康の保証を、あるすぐれた女歌手にささげた。
 クリストフは芸術家らを非難するばかりでは満足しなかった。彼は舞台から飛び出して、呆然《ぼうぜん》と口を開きながらそれらの演奏に臨んでる聴衆をもなぐりつけた。聴衆は惘然《ぼうぜん》として、笑っていいか怒っていいかもわからなかった。彼らはその非道な仕打ちにたいして怒号してもよかった。元来彼らは芸術上の戦いにはいっさい加わるまいと注意していた。あらゆる紛議の外に用心深く身を置いていた。そして間違いをしやすまいかと気づかって、すべてのものを喝采《かっさい》していた。ところが今クリストフは、彼らの喝采《かっさい》を罪悪だとした。……悪作を喝采するというのか! それだけでもたまらないことだ! がクリストフはなお極端に奔《はし》った。彼が彼らに最も非難したのは、偉大な作品を喝采することであった。
「道化者めが、」と彼は彼らに言った、「諸君はそんなに多くの感激を持ち合わしてると人から思われたいのか。……ところが、諸君はちょうど反対のことを証明してるのだ。喝采したいなら、喝采に相当する作品か楽節かを喝采したまえ。モーツァルトが言ったように、『長い耳のために』作られた騒々しい結末を、喝采したまえ。そこでは有頂天に拍手したまえ。驢馬《ろば》の鳴き声が初めから予想されてるんだ。それが音楽会の一部となっているんだ。――しかしながら、ベートーヴェンの荘厳ミサ曲[#「荘厳ミサ曲」に傍点]のあとには!……不幸なるかなだ!……これは最後の審判である。あたかも大洋上の暴風のように、狂いだつ栄光《グロリア》が展開するのを、諸君は見たのだ。強力|暴戻《ぼうれい》なる意力の竜巻《たつまき》が過ぎるのを、諸君は見たのだ。それは進行を止めて雲につかまりながら、両の拳《こぶし》で深淵《しんえん》の上方にしがみつき、そしてまた全速力で空間中に突進する。※[#「風にょう+炎」、第4水準2−92−35]風《ひょうふう》は怒号する。その暴風の最も強烈な最中に、にわかの転調が、音の反射が、空の暗黒をうがって、蒼白《そうはく》な海の上に、光の延板のように落ちてくる。それが終わりである。殺戮《さつりく》の天使の猛然たる飛翔《ひしょう》は、三度の稲妻に翼を縛られて、ぴたりと止まる。周囲ではまだすべてが戦《おのの》いている。酔える眼は眩《くら》んでいる。心臓は鼓動し、呼吸は止まり、四|肢《し》は痲痺《まひ》している……。そして最後の音が響き終わらないうちに、諸君はすでに快活に愉快になり、叫び、笑い、批評し、喝采する。……実に諸君は、何も見ず、何も聞かず、何も感ぜず、何も理解しなかったのだ、絶対に何物も! 芸術家の苦悩も、諸君にとっては一場の見物となるのだ。一ベートーヴェンの苦悶《くもん》の涙を、諸君はみごとに描かれてると判断する。諸君は主の磔刑《はりつけけい》にたいして『も一度!』と叫ぶかもしれない。諸君の好奇心を一時間の間楽しませるためには、偉大なる魂が一生の間苦悶のうちにもがくのだ!……」
 かくてクリストフは、ゲーテの偉大な言葉を、まだその尊大なる清朗さには到達していなかったけれども、みずから知らずして注釈したのであった。

[#ここから3字下げ]
民衆は崇高なるものをもてあそぶ。されどもしその真相を知らば、あえてながめ得るの力を有せざるべし。
[#ここで字下げ終わり]

 クリストフはそこで止まればよかった。――しかし彼は勢いに駆られて、聴衆を通り越し、あたかも砲弾のように、聖堂の中に、神殿の中に、凡庸《ぼんよう》者の犯すべからざる避難所の中に――批評界に、落ち込んでいった。彼は同輩らを砲撃した。彼らのうちの一人は、現存の作曲家中最も天分に富んだ者、新進派の最も進んだ代表者、すなわち、実を言えばかなり奇怪ではあるがしかし天才の閃《ひらめ》きに満ちた標題|交響曲《シンフォニー》の作者ハスレルを、あえて攻撃していた。子供のおりハスレルに紹介されたことのあるクリストフは、その昔受けた感激の感謝として、いつも彼にひそかな愛情をいだいていた。ところが今、明らかに無知な馬鹿批評家が、かかる人にたいして訓言を与え、秩序と規範との警告をなすのを見ると、彼は我れを忘れて憤った。
「秩序だと! 秩序だと!」と彼は叫んだ、「君らは警察の秩序よりほかに秩序を知らないんだ。天才は踏み固められた道を進むものではない。天才は秩序を創《つく》り出し、おのれの意志を規範にまで高めるのだ。」
 こういう傲慢《ごうまん》な宣言の後に、クリストフはその不運な批評家をとらえて、彼が近ごろ書いた愚劣な事柄をことごとく取り上げ、厳格な是正を施してやった。
 批評界全部が侮辱を感じた。それまで批評界は戦いから遠ざかっていた。彼らは側杖《そばづえ》を食うようなことをしたくなかった。彼らはクリストフの人物を知っていた。彼の能力や彼の短気なことを知っていた。それでただ数人の者が、彼のように天分のある作曲家が天職でもない方面に迷い込むのは遺憾だという旨を、控え目に発表したにすぎなかった。いかなる意見をいだいていたにせよ(彼らが一つの意見をもったとして、)彼らはクリストフにも、自分を批評されることなしにすべてを批評し得るという批評家の特権を、尊重していたのである。しかしクリストフが、批評家をつないでいる暗黙の因襲を乱暴にも破るのを見た時、彼らはただちにクリストフをもって、一般秩序の敵であると見なした。一青年が国民的光栄をになってる人々にたいしてあえて敬意を失することは、だれにも皆いまいましいことに思われた。そして彼らはクリストフにたいして、猛烈な戦いを始めた。それは長い論説や引きつづいた論争ではなかった。――(自分より武装の優《まさ》ってる敵にたいすると、彼らはみずから進んでそういう陣地で戦おうとはしない。新聞記者というものは、敵の理論を眼中に置かずにまたそれを読みもしないで、議論を戦わし得るという特殊な才能をもってるものではあるが。)――彼らは長い経験から教えられていた、一新聞の読者は常にその新聞と同意見であるから、論争するようなふうを見せることだけでも、すでに読者の信用を弱めることになると。それゆえ断定しなければならなかった、あるいはさらに上策としては、否定しなければならなかった。(否定は断定の二倍の力をもっている。それは重力の法則の直接的結果である。石を空中に投げ上げるよりも、それを落下させる方がはるかに容易である。)で彼らは好んで、不誠実な皮肉な侮辱的な小文の方法に頼って、それを毎日|倦《う》むことなき執拗《しつよう》さをもって、適当な場所にくり返し掲載した。いつもそれと名ざされてはいなかったが、しかし明らかにわかるようなやり方で、横柄《おうへい》なクリストフが嘲笑《ちょうしよう》されていた。クリストフの言は変化されて、馬鹿げたものになされていた。報ぜられてるクリストフの逸話は、時とすると端緒だけがほんとうのこともあったが、しかしその他はすべてこしらえ物で、全市の人々との間を不和になすために、またさらに宮廷との間を不和になすために、巧みに細工されたものであった。また人身攻撃にまでわたって、彼の顔立ちや服装《みなり》などが悪口され、その漫画が一つ作られていたが、幾度もくり返し掲載されたために、ついには彼に似てると一般に思われるようになった。

 それらのことはクリストフの友人らにとっては、もし彼らの雑誌が戦いの飛沫《ひまつ》を受けさえしなかったならば、別になんでもないことだったろう。実際のところ、それは雑誌の広告だった。同人らは雑誌を争論の渦中《かちゅう》に投げ出そうとはせずに、むしろ雑誌をクリストフから引き離そうと思った。彼らは雑誌の評判が傷つけられるのに驚いた。そしてもし注意しなければ、少なくとも編集の方において、遺憾ながら同等の責任を帯ぶるの余儀なきにいたるだろうということが、次第にわかってきた。アドルフ・マイとマンハイムにたいするまだかなり手緩《てぬる》い攻撃が始められただけで、蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎになった。マンハイムは面白がった。このことは、父や叔父《おじ》たちや従兄弟《いとこ》たちや数多《あまた》の親戚《しんせき》など、彼がなすことをすべて監視しそれをいまいましく思うのを自分の権利だとしてる連中を、たぶんは立腹させるかもしれないと思った。しかしアドルフ・マイは本気に考えて、雑誌の評判を悪くすることをクリストフに非難した。クリストフは手きびしく撃退した。他の同人らは、害を被らなかったので、いつも皆にたいして首領らしい振舞いをしていたマイが皆の代わりに一本やられたことを、かえっておかしがった。ワルトハウスはひそかに愉快がった。喧嘩《けんか》があればかならず頭を割られる者も出て来る、と彼は言った。もとよりそれは自分の頭を除外した意味でだった。家柄から言っても交友から言っても、自分は打撃を受けないですむと思っていた。そして同人のユダヤ人らが多少いじめられても、別に不都合はないと考えていた。エーレンフェルトとゴールデンリンクとは、まだ害は被らなかったが、多少の攻撃に狼狽《ろうばい》するような者ではなかった。彼らは答え返すことができるのだった。彼らにとってそれよりはるかに手痛いことは、クリストフが頑固《がんこ》に議論をつづけるために、友人らことに女の友人らとの仲が、妙に不和になることであった。彼らは最初の論説を見ると、ごく愉快になって面白い狂言だと思った。クリストフの破竹の勢いを感嘆した。そしてただ一言忠告さえすれば、彼の争闘的な熱気を和らげることができ、あるいは少なくとも、自分らが名ざす男や女からは彼の攻撃を転ぜしむることができると思い込んでいた。――ところがそうはいかない。クリストフは何物にも耳を貸さなかった。なんらの勧告をも顧慮しなかった。そして猛《たけ》り狂ったように攻撃をつづけた。もしそのまま放《ほう》っておいたら、もはやこの地方では生き得られなくなるかもしれなかった。すでに彼らのかわいい女の友だちらは、涙を流して口惜《くや》しがりながら、雑誌社へやって来て苦情をもち込んだ。彼らはあらゆる手段をつくして、クリストフにせめてある批評だけなりと和らげさせようとした。しかしクリストフは少しも調子を変えなかった。彼らは憤った。クリストフも憤った。しかし彼は少しもあらためなかった。ワルトハウスは、自分になんら影響のない友人らの憤激を面白がり、彼らをますます怒らせるためにクリストフの味方をした。万人に向かって頭からぶつかってゆき、なんら退却の道を講ぜず、未来のために隠《かく》れ家《が》を取っておこうとしない、クリストフの勇敢な無法さを、おそらく彼は彼らよりもよく評価し得たのであろう。次にマンハイムは、なんらの私心なしにその騒動を愉快がっていた。几帳面《きちょうめん》な同人どもの中にこの狂人を引き入れたのは、面白い狂言のように思われた。そしクリストフが振り回す拳固《げんこ》をも、また自分にふりかかってくる攻撃をも、斉《ひと》しく腹をかかえて笑っていた。妹の感化を受けて、クリストフにはまさしく足りないところが多少あると信じ始めてはいたものの、そのためにますますクリストフが好ましくなるばかりだった。――(彼は自分が同感をもち得る人々のことを多少|滑稽《こっけい》だと思いたがっていた。)――それで彼はワルトハウスとともに、他人に反対してクリストフを支持しつづけた。
 彼はいつもつとめて自分には実際的才能がないと思いたがってはいたが、それでもなお実際的才能が乏しくはなかったので、ちょうどおりよくも、この地方で最も進んだ音楽上の一派の主旨と友の主旨とを結びつけた方が、ずっと有利だろうということを思いついた。
 ドイツのたいていの都市にあるように、この町にも一つのワグナー協会があって、保守派に、対抗して新思潮を代表していた。――そしてもとより、ワグナーの光栄が至る所で認められ、彼の作品がドイツのあらゆる歌劇場の上演曲目にのぼせられるに及んでは、彼を擁護しても大なる危険を
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