た。なんとも言わないで出かけようとした。しかし階段の上まで来るうちに、彼女が独《ひと》りぽっちで一晩じゅう心配するだろうと考えた。彼は忘れ物があるという口実をみずから設けて、また室にもどった。母の室の扉《とびら》が半ば開いていた。彼はその間からのぞき込んだ。そして数秒の間母をながめた……。その数秒が、今後彼の生涯中いかなる場所を占めることになったか!……
ルイザはその時、晩の祈祷《きとう》からもどって来たところだった。窓の隅の例の好きな場所にすわっていた。正面の家の亀裂《きれつ》のあるよごれた白壁が、ながめをさえぎっていた。しかし彼女がすわってる隅からは、右手の方に、隣家の二つの中庭の向こうに、ハンカチほどの芝生《しばふ》の片隅が見られた。窓縁には一|鉢《はち》の朝顔が絲にからんで伸びていて、ぶらさがってる梯子《はしご》の上にその細やかな蔓《つる》を広げていた。一条の光線がそれに当たっていた。ルイザは椅子《いす》に腰掛け、背を丸くして、大きな聖書を膝《ひざ》の上に開きながら、別に読んでもいなかった。両手を――筋が太くふくれて、労働者のように少し曲がってる四角な爪《つめ》のある両手を――聖書の上に平たくのせて、小さな植物と斜めに見える空の一角とを、しみじみとながめていた。金緑色の朝顔の葉から来る光の反射が、少し痣《あざ》のある疲れた顔を、ごく細かくてあまり濃くない白い髪を、微笑んで半ば開いてる口を、照らしていた。彼女はこの安息の時を楽しんでいた。それは彼女の一週間中で最もよい瞬間だった。苦しんでる者にとってはごく楽しい状態、何事も考えず、ただあるがままにうっとりとして、半睡の心だけが口をきいてくれる状態、それに彼女は浸っていた。
「お母さん、」と彼は言った、「少し出かけてみたいんです。ブイルの方を一回りしてきます。帰りは少し遅《おそ》くなるかもしれません。」
うとうととしていたルイザは、軽く身を震わした。それから彼の方へ向き返り、平和なやさしい眼で彼をながめた。
「行っておいで。」と彼女は言った。「ほんとうにね、よいお天気だから。」
彼女は微笑《ほほえ》んでみせた。彼もまた微笑み返した。二人はしばし顔を見合わしていた。それからたがいに頭と眼とで、ちょっとやさしい会釈をかわした。
彼は静かに扉《とびら》を閉《し》めた。彼女はまた徐《おもむ》ろに夢想にふけった。色|褪《あ》せた朝顔の実にさしてる光線のように、息子の微笑みはその夢想に、一条の輝いた反映を投じていた。
かくして、彼は母を置きざりにしたのであった――一生の間。
十月の夕《ゆうべ》。青白い冷やかな太陽。懶《ものう》げな田舎《いなか》はまどろんでいる。村々の小さな鐘が、野の沈黙のうちにゆるやかに鳴っている。耕作地のまん中から、数条の煙が徐ろに立ち上っている。こまやかな靄《もや》が遠くに漂っている。ぬれた地面を覆《おお》っている白い霧が、夜の来るを待って立ち上ろうとしている……。一匹の猟犬が、地面に鼻をすれすれにして、甜菜《てんさい》の畑の中を駆け回っていた。小鳥の群れが幾つも、薄暗い空に舞っていた。
クリストフは夢想にふけりながら、目当ても定めずに、しかも本能的に、一定の方向へ歩いていた。数週間以来、彼の散歩は、ある村の方へ向かいがちだった。そこへ行けばきっと、一人の美しい娘に出会うのだった。彼はその娘に心ひかれていた。それは単に好きだというにすぎなかったが、しかしごく強い多少不安な好き方だった。クリストフはだれかを愛せずにはほとんどいられなかった。彼の心はめったにむなしいことがなかった。偶像たるべき何かの美しい面影が、いつもすえられていた。愛してることをその偶像から知られるか否かは、多くの場合どうでもいいことだった。彼に必要なのは愛することだった。心の中が決してまっくらにならないこと、それが必要だった。
こんどの新しい炎の対象は、ある農家の娘だった。エリエゼルがレベッカに会ったように、彼は彼女に泉のそばで会った。しかし彼女は彼に水を飲めとは言わなかった。彼の顔に水をはねかけたのだった。小川の岸のくぼんだ所、巣のように根を張ってる二本の柳の間に、彼女は膝《ひざ》をついて、勇敢にシャツを洗っていた。その舌も腕に劣らず活発だった。小川の向こう岸でせんたくをしている他の村娘たちと、盛んに談笑していた。クリストフは数歩離れて、草の上に寝そべっていた。そして両手に頤《あご》をのせて、彼女らをながめていた。彼女らはほとんどきまり悪がりもしなかった。時とすると生意気に聞こえる調子でしゃべりつづけていた。彼はあまり耳にも止めなかった。せんたく板の音や牧場の牛の遠い鳴き声などに交ってる、彼女らの笑い声の響きばかりを聞いていた。そして彼は、一人の美しい娘から眼を離さないで、ぼん
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