た。クリストフは不動のまま彼女をながめた。それからにわかに、そこにひざまずいて、母の長衣の中に顔を埋めた。そして一言も言わないで、涙を流した。その時彼女は、彼がとどまることを悟った。彼女の心は、死ぬほどのつらい苦しみから和らいだ。――しかしすぐに、苛責《かしゃく》の念が交ってきた。息子が犠牲にしてくれたすべてのものを、彼女は感じたのである。そして、彼が彼女を犠牲にした時に苦しんだすべてを、彼女が苦しみ始めた。彼女は彼の上に身をかがめてその額《ひたい》や髪に唇《くちびる》をあてた。二人は無言のうちに、涙と悲痛とを共にした。ついに彼は頭を挙げた。ルイザは彼の顔を両手にはさんで、眼の中を見入った。彼女は言いたかった。
「お発《た》ちなさい!」
しかしそれを言うことができなかった。
彼はこう言いたかった。
「喜んでとどまりましょう。」
しかし彼はそれを言うことができなかった。
どうにもできない情況だった。二人とも処置に困った。彼女は切ない愛情のうちに溜息《ためいき》をついた。「ああ、みんないっしょに生まれていっしょに死ぬことができるのだったら!」
その素朴《そぼく》な願いが、彼のうちにやさしく沁《し》み通った。彼は涙をふいて、微笑《ほほえ》もうとつとめながら言った。
「いっしょに死にましょう。」
彼女はなお尋ねた。
「確かですか。発《た》たないんですね。」
彼は立ち上がった。
「きまったことです。もうそのことを言うのはよしましょう。またあともどりをするには及びません。」
クリストフは言葉を違えなかった。もう出発のことを言い出さなかった。しかしそれを考えずにはいられなかった。彼はとどまった。しかしその犠牲の返報として、悲しい様子や不機嫌《ふきげん》さで母を悩ました。そしてルイザは、やり方が拙劣であって――自分は拙劣だと知りつつも、していけないことをかならずするほど、きわめて拙劣で――彼の悩みの原因を知りすぎていながら、しつこくそれを彼の口から言わせようとした。落ち着きのない煩《うるさ》い理屈っぽい愛情で彼をなやまし、二人はたがいに異なった性質であることを――彼が忘れようとつとめていたことを、始終彼に思い出さした。幾度彼は彼女に心のうちをうち明けたがったことだろう! しかし口を開こうとすると、いかんともできない壁が間につっ立った。そして彼は内心の思いを胸に潜めた。彼女はそれに気づいていた。しかし彼のうち明け話を求むることもなしかねたし、またどういうふうに求めていいかもわからなかった。思いきってやってみても、彼が胸につかえて言いたくてたまらながってるその思いを、ますます深く秘めさせるばかりだった。
多くの些細《ささい》なことのために、罪のない癖のために、彼女はまたクリストフをいらだたせて、間をうとくならしていた。人のいいこの老母は少しぼけていた。彼女は近所の噂《うわさ》話をくり返したがった。また保母めいた愛情をもっていて、人を揺籃《ゆりかご》に結びつける子供時代のくだらない事柄を、しきりにもち出した。しかしそれからのがれるには、一人前の男となるには、もう非常に骨を折ってきたではないか。しかるにいまさら、ジュリエットの乳母《うば》のごときが現われてきて、汚ない襁褓《むつき》や、くだらない考えや、また、幼い魂が卑しい物質と息苦しい環境との圧迫に逆らう、あの厄介《やっかい》な時代を、一々述べたてなければならないというのか!
それらのことの合い間には、彼女はいとやさしい愛情の発作を――あたかも赤ん坊を相手にしてるかのように――示すのであった。彼はそれに心をとらわれて、身をうち任せる――あたかも赤ん坊のように――のほかはなかった。
最も悪いのは、彼らのように、朝から晩まで始終二人きりで、しかも他人から孤立して、暮らしてゆくことである。二人でいて苦しむ時には、たがいにその苦しみを医することができない時には、それを激烈ならしむるのは必然の勢いである。自分の苦しみの責《せめ》をたがいに転嫁し合い、実際にそうだと信じてしまう。それよりはむしろ一人きりの方がよい。苦しむのは一人きりだから。
彼ら二人には毎日苦悩の日がつづいた。世間にしばしばあるごとく、偶然の事件が起こって、外見上不幸な――実は巧妙な――方法で、二人がもがいている残忍な不決定な状態を断ち切ってくれなかったならば、彼らは長くそれから脱し得なかったであろう。
十月のある日曜日だった。午後四時のこと。天気は晴れ晴れとしていた。クリストフは終日室にとじこもって、「自分の憂鬱《ゆううつ》を嘗《な》め」ながら考え込んでいた。
彼はもう我慢ができなかった。外に出て、歩き回り、精力を費やし、身体を疲らして、もう考えないようになりたくてたまらなかった。
前日から母との間が気まずかっ
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