りませんか。世間はほんとに醜くなっていきます。一日一日と悪くなっていきます。……といっても、神様からこんな言葉をしかられはすまいかという気もします。そしてほんとうのことを申せば、世間がどんなにきたなくっても、私はやはり世間を見つづけてゆく方が望みです……。」
モデスタがまた現われた。話は他へそらされた。クリストフは、もう天気がよくなったので出かけたがった。しかし人々は承知しなかった。彼はやむを得ず、夕食の馳走《ちそう》になって一夜を共にすることとなった。モデスタはクリストフの横にすわって、一晩じゅうそばを離れなかった。彼はこの若い娘の運命を憐《あわ》れんで、しみじみと話をしたかった。しかし彼女はその機会を与えなかった。彼女はただゴットフリートのことを尋ねるばかりだった。クリストフが彼女の知らないことを話してやると、彼女はうれしがるとともにまた多少|妬《ねた》んでいた。彼女の方ではゴットフリートのことを進んで語ろうとしなかった。明らかにすっかり言ってしまいはしなかった。あるいはすっかり言うと、言ったあとで後悔していた。思い出は彼女の財産であって、彼女はそれを他人へ分かちたくなかった。彼女のこの愛情のうちには、おのが土地に執着《しゅうじゃく》してる百姓女のような峻烈《しゅんれつ》さがあった。自分と同じようによくゴットフリートを愛する者がいると考えることは、彼女にとっては不快であった。実際彼女はそういうことを信じたくなかった。クリストフはその心中を読み取って、彼女を満足のままにしておいてやった。彼女の話を聞きながら彼は気づいた、彼女は昔ゴットフリートを眼で見たことがあるにもかかわらず、盲目になってからは、実際とまったく異なった面影を作り出しているということは。彼女はその幻影の上に、自分のうちにある愛の要求をことごとくなげかけてるのであった。何物もかかる幻想の働きを妨げるものはなかった。自分の知らないことをも平気で作り出す盲人通有の、大胆な確信をもって、彼女はクリストフに言った。
「あなたはあの人に似ています。」
彼が了解したところでは、彼女は数年来、雨戸を閉《し》め切って真実の光のさし込まない家の中に、暮らしつづけてきたのであった。そして、あたりに罩《こ》めてる闇《やみ》の中で見ることを覚え、闇をも忘れるまでになってる今では、闇にさし込む一条の光に会ったら、たぶんそれを恐れることであろう。彼女はクリストフとともに、やさしい切れ切れの話をしながら、かなり幼稚な些細《ささい》な事柄ばかりをやたらにもち出していた。そういう話にクリストフはあまり興を覚えなかった。彼はその無駄《むだ》話に厭気《いやき》がさしてきた。このようにひどく苦しんだ者が、苦しみのうちにもっと真面目《まじめ》にならないで、そんなつまらない事柄をどうして面白がるのか、彼には理解がいかなかった。彼は時々もっと重大な事柄を話そうと試みた。しかしそれにはなんらの反響もなかった。モデスタは重大な話にはいってゆくことは、できなかった――欲しなかった。
人々は床についた。クリストフは長く眠れなかった。彼はゴットフリートのことを考え、モデスタの幼稚な思い出話から、その面影を引き離そうとつとめた。しかし容易にできないのでいらだってきた。叔父がここで死んだこと、この寝台にその身体は休らったに違いないこと、それを考えては胸迫る思いがした。口をきいて盲目娘に自分のありさまを知らせることができないで、眼を閉じて死んでいったおりの、その臨終の苦悶《くもん》を思い起こそうと彼はつとめた。彼はその眼瞼《まぶた》を開いて、その下に隠れてる思想を、人からも知られずまたおそらくみずからも知らないで去っていったこの魂の秘奥《ひおう》を、どんなにか読み取りたかった! しかしこの魂自身は、そういうことを少しも求めてはいなかった。その知恵はすべて、知恵を欲しないことにあった。自分の意志を事物に強《し》いたがらないことに、事物の成り行きに身を任せ、その成り行きを受け入れ愛することに、あるのだった。かくて彼は事物の神秘な本質と同化していた。そして、この盲目娘や、クリストフや、またきっと人の知らない多くの者に、あれほどいいことをしてやったのも、自然にたいする人間の反抗の常套《じょうとう》語をもたらす代わりに、自然そのものの平和を、和解を、もたらしてやったからである。彼は野や森のように、人に恵みを与えていたのである。……クリストフは、ゴットフリートとともに野の中で過ごした晩のこと、子供のおりに連れて行かれた散歩のこと、夜中に聞かされた物語や歌のこと、などを思い浮かべた。絶望の冬の朝、町を見おろす丘の上を、叔父《おじ》とともに試みた最後の散歩、それを思い起こした。そして眼に涙が湧《わ》いてきた。彼は眠りたくなかった。
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