沈黙していた。家も街路も眠っていた。クリストフは振り向いた。老人の泣いてるのが眼に止まった。彼は立ち上がって、そのそばに行って抱擁してやった。二人は夜の静けさの中で、声低く話した。掛時計の秒を刻む鈍い音が、隣りの室で響いていた。シュルツは両手を握り合わせ、身体を前にかがめて、小声で話した。クリストフに尋ねられて、身の上や悲しい事柄を物語った。そしてたえず、愚痴を並べることを恐れては、こう言わざるを得なかった。
「私が悪かった……私は不平を言う権利はない……私は皆からたいへん親切にしてもらった……。」
そして彼は実際不平を言ってるのではなかった。それはただ、孤独な生活のつつましい物語から出てくる、無意識な憂愁にすぎなかった。最も悲しい刹那《せつな》には、ごく漠然《ばくぜん》とした感傷的な理想主義の信念告白を交えた。クリストフはそれに悩まされたが、しかし抗弁するのも残酷だった。要するにシュルツのうちにあるものは、確固たる信念よりもむしろ、信ぜんとする熱烈な欲求――不確かな希望であった。彼はそれに、浮標へすがるようにすがりついていた。彼はクリストフの眼の中にその確認を求めていた。クリストフは、切実な信頼の念をもって自分を見入り、自分の答えを懇願し――こう答えてくれと指図してる、友の眼の訴えを心に聞いた。すると彼は、落ち着いた信念と力との言葉を言ってやった。老人はそれを待っていて、それから慰謝を受けた。老人と青年とは、間を隔ててる年月をうち忘れた。二人はたがいに接近して、愛し合い助け合う同年輩の兄弟のようであった。弱い方は強い方に支持を求めていた。老人は青年の魂の中に避難していた。
彼らは十二時過ぎに別れた。クリストフは乗って来たのと同じ列車に乗るために、早く起きなければならなかった。それで服をぬぎながらぐずついていなかった。老人は客の室を、幾月もの滞在を強《し》いるかのようにしつらえていた。花瓶《かびん》にいけた薔薇《ばら》と一枝の月桂樹《げっけいじゅ》とを、テーブルの上にのせておいた。机の上には真新しい吸取紙を備えておいた。朝のうちに、竪形《たてがた》ピアノを運ばせておいた。自分の最も大事な最も好きな書物を数冊選んで、枕頭《ちんとう》の小棚《こだな》にのせておいた。どんな些細《ささい》なものも、愛情をこめて考えなかったものはない。しかしそれは徒労に終わった。クリストフは何にも見なかった。彼は寝台に飛びのって、すぐにぐっすり寝入った。
シュルツは眠らなかった。自分の受けたあらゆる喜びや、友の出発について今から感じてるあらゆる悲しみなどを、一時に考え出していた。二人で言いかわした言葉をまた頭に浮かべていた。自分の寝台のよせかけてある壁の彼方《かなた》に、すぐ近くに、親愛なるクリストフが眠ってることを、考えていた。疲れはててがっかりしぬいていた。散歩の間に冷えて、病気が再発しかけてると感じていた。しかし彼はただ一つのことしか思ってはいなかった。
「彼が発《た》ってしまうまでもちこたえさえすれば!」
そして咳《せ》き込むと、クリストフを起こしはすまいかとびくびくしていた。彼は神にたいする感謝の念で、いっぱいになっていて、老シメオンの今や逝せ給え[#「今や逝せ給え」に傍点](訳者添、今や僕(しもべ)を安全に世を逝(さら)せ給え)という聖歌に基づいて、詩を作りはじめた。……作った詩を書くために、汗まみれになって起き上がった。そして長くテーブルにすわって、ていねいにそれを書き直し、愛情のあふれた捧呈《ほうてい》文をつけ、下部に署名をし、日付と時間とを書き入れた。それから、震えが出てまた床についたが、もう夜通し身体が温《あたた》まらなかった。
曙《あけぼの》がきた。シュルツは残り惜しい心持で、前日の曙のことを考えた。しかしそういう考えで、残ってる最後の幸福の瞬間を乱すことを、みずから責めた。翌日になったらただいま去りつつある時間を愛惜するようになるだろうと、よく知っていた。彼はこの時間を少しも無駄《むだ》に失うまいとつとめた。彼は隣室のわずかな物音にも耳を澄ました。しかしクリストフは身動きもしなかった。彼は寝た通りの場所にまだ横たわっていて、少しも身を動かしてはいなかった。六時半が鳴った。彼はまだ眠っていた。彼に汽車を乗り遅らせることは訳もないことだった。そしてきっと彼はそれを笑って済ますに違いなかった。しかし老人は小心翼々としていて、友のことを承諾も得ずに勝手にきめることはできなかった。彼はいたずらにくり返し言った。
「私のせいじゃない。私にはなんの責《せめ》もあるまい。ただ知らせないだけでいいのだ。そして彼がおりよく眼を覚《さ》まさなかったら、私はも一日彼といっしょに過ごせるのだ。」
しかしこうみずから答え返した。
「いや、私には
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