ムとばったり出会った。
 マンハイムは彼の腕をとらえた。そして、父の妹に当たる老いぼれ婆《ばあ》さんが、おおぜいの家族を連れて不意にやって来たことや、それを迎えるために皆家にいなければならなかったことなどを、腹だたしい様子でしかも嘲《あざけ》りの調子を失わないで語ってきかした。彼は逃げ出そうとしたのだった。しかし父は、家庭上の礼儀と年長者に払うべき尊敬との問題については、嘲弄《ちょうろう》を許さなかった。それにちょうど彼は、父をうまく取りなして金を引き出す必要があったので、譲歩して芝居をあきらめない訳にはゆかなかった。
「君たちは切符をもってたのかい。」とクリストフは尋ねた。
「そうさ、上等の桟敷《ボックス》だ。おまけに、僕はそれを他《ほか》へ届けなけりゃならないんだ――(このまますぐに行くところだ)――親父《おやじ》の仲間でグリューネバウムという奴《やつ》にさ。妻君と馬鹿娘とを連れて行っていただきたいというんでね。愉快な話さ。……僕はせめて奴らに何か面白くないことを言ってやりたいと思ってるんだ。だがそんなことには奴らは平気だ、切符さえもって来てもらえれば――切符が紙幣《さつ》ならなお喜ぶだろうがね。」
 彼はクリストフをながめながら、口を開いたままにわかに言いやめた。
「ああ……そうだ……ちょうどいい!」
 彼は低く言った。
「クリストフ、君は芝居へ行くのかい。」
「いや。」
「諾《うん》と言えよ。芝居へ行ってくれ。僕の頼みだ。厭《いや》とは言えまい。」
 クリストフは訳がわからなかった。
「だが切符がないんだ。」
「ここにある!」とマンハイムは勢いよく言いながら、彼の手に切符を無理に握らしてしまった。
「君はめちゃだ。」とクリストフは言った。「そしてお父《とう》さんの言いつけは?」
 マンハイムは笑いこけた。
「怒《おこ》るだろうよ。」と彼は言った。
 彼は笑い涙を拭《ふ》いて、そして結論した。
「明日《あした》の朝起きぬけに、まだ何にも知らないうちに、僕からもち出してやるんだ。」
「僕は承知できない、」とクリストフは言った、「君のお父さんに不愉快なことだと知っては。」
「君が知る必要はない、君の知ったことじゃない、君に関係あることじゃないんだ。」
 クリストフは切符を開いた。
「そして四人分の桟敷《ボックス》をどうするんだい。」
「いいようにするさ。よかったらその奥で眠っても踊っても構わない。女を連れてゆくさ。幾人かあるだろう。入用なら貸してやってもいいよ。」
 クリストフは切符をマンハイムに差し出した。
「いや、どうしてもいやだ。取ってくれ。」
「取るもんか。」とマンハイムは数歩|退《さが》りながら言った。「厭なら無理に行ってくれとは言わない。だがもうそれは受け取らないよ。火にくべようと、または律義《りちぎ》者の真似《まね》をしてグリューネバウムの家へ届けようと、それは君の勝手だ。もう僕に関係したことじゃない。さよなら。」
 彼は手に切符をもってるクリストフを往来のまん中に置きざりにして、逃げて行ってしまった。
 クリストフは困った。グリューネバウムの家へ切符をもってゆくのが至当であると、はっきり思ってもみた。しかしその考えにはあまり気乗りがしなかった。心を定めかねて家へ帰った。気がついて時計をながめてみると、もう芝居へ行くために着替えるだけの時間しかなかった。いずれにしても切符を無駄《むだ》にするのはあまり馬鹿げていた。母へいっしょに行こうと勧めてみた。しかしルイザは、これから寝る方がいいと言った。彼は出かけた。心の底には子供らしい楽しみがあった。ただ一つ不満なのは、その楽しみを一人きりで味わうことだった。桟敷を取り上げてやったグリューネバウム一家や、マンハイムの父にたいしては、なんらの苛責《かしゃく》をも感じなかったけれど、自分と桟敷を共にし得るかもしれない人々にたいして、一種の苛責を感じた。自分のような若い者にとっては、それがどんなに喜ばしいことであるかを考えると、その喜びを分かたないのがつらかった。頭の中であれこれと物色してみたが、切符をやるような相手が見つからなかった。そのうえもう遅《おそ》くなっていて、急がなければならなかった。
 劇場へはいる時に、彼は閉《し》め切られてる札売場のそばを通った。座席係りの方にはもう一席も残っていないことが、掲示に示してあった。残念そうに帰ってゆく人々のうちに、彼は一人の若い女を認めた。彼女はまだ思い切って出て行くことができないで、はいって行く人々をうらやましそうにながめていた。ごく簡素な黒服をまとい、さほど背が高くもなく、細そりした顔立ちで、しとやかな様子だった。きれいであるか醜いかは気づく隙《ひま》がなかった。彼は彼女の前を通り越した。がちょっと立ち止まり、ふり向いて、考
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